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五海道其外分間延絵図並見取絵図(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)
帷子町図(拡大元画像・絵図東海道中央に、帷子川と板橋が描かれています。)
旧帷子橋跡
[江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋は、絵画に描かれたり、歌や俳句に詠まれるなど、保土ケ谷宿を代表する風景として知られていました。中でも初代歌川広重の「東海道五十三次之内 保土ヶ谷」は特に有名です。
『昭和39年(1964)7月に、帷子川の流れがそれまでの相模鉄道天王町駅南側から、北側に付け替えられたのに伴い、帷子橋の位置も変わりました。かつての帷子橋の跡地は現在の天王町駅前公園の一部にあたります。 横浜市教育委員会』 (「旧東海道巡礼 ①帷子橋と天王町 – 地球のしずく – Yahoo!ブログ」より)]
程ヶ谷宿
[程ヶ谷宿(ほどがやしゅく、ほどがやじゅく、保土ヶ谷宿とも書く)は、東海道五十三次の4番目の宿場である。東海道では武蔵国最西端の宿場町である。
1601年(慶長6年)、武蔵国橘樹郡程ヶ谷(現在の神奈川県横浜市保土ケ谷区)に置かれた。
程ヶ谷町、岩間町、神戸町、帷子町の四町からなり、神奈川宿から南西に進んだ旧東海道は、芝生村から江戸見附(現在の天王町駅付近)を越えて宿場へ入り、帷子橋を渡って下岩間町・帷子田町・下神戸町・帷子上町・上神戸町・上岩間町・程ヶ谷町と町並みが続く。程ヶ谷町には問屋場や助郷会所などがあり、さらに現在の東海道線踏切を越えた保土ヶ谷橋交差点付近にあった本陣で大きく西に折れ、茶屋町の先にあった上方見附を経て宿場を出ると元来宿場のあった元町を通り、権太坂を登って東戸塚駅方面へ進む。
1648年(慶安元年)までは元町付近に宿場があり、東海道も西北の位置にあったが、新町(下岩間町 – 程ヶ谷茶屋町)が起立して道筋も変更になった。新町起立の経緯や道筋変更の由来は現在も明らかになっていない。なお、程ヶ谷宿の正式なエリアは芝生村追分(現在の横浜市営バス浅間町営業所付近)から境木立場(境木地蔵尊付近)までとされており、このため権太坂を程ヶ谷宿に含めることが多い。
本陣
本陣は後北条氏の家臣・苅部康則の子孫が代々勤め、明治に軽部姓へ改称して現在も同地に居住している。同家は、横浜町の総年寄も務めた。また、横浜道の開発者でもある。吉田勘兵衛、高島嘉右衛門らとともに横浜三名士といわれる。
「保土ヶ谷宿・帷子橋(歌川広重『東海道五十三次』より)」・wikipedia-photo、
現在の帷子橋跡(天王町駅前)・wikipedia-photo
(wikipedia・程ヶ谷宿より)]
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図 」・「帷子川」(6-10)、「帷子川解説・右ページ中程」(6-9)
帷子川(拡大図)
広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)程ヶ谷 新町入口』(wikipedia-photo)
『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 五 五十三次 程ヶ谷 かたびら川 かたびら橋」(wikipedia-photo)
『東海道五十三次細見圖㑹 道中風俗 程ヶ谷』、「大山参りの諸人(ひと)、宿引」(Wikimedia Commons)
葛飾北斎『東海道五十三次』(東海道五十三次-葛飾北斎 画[他]-歴史画報社.pdf) – 保土ヶ谷宿
カメラ南南西方向に旧帷子橋跡のモニュメントが設置されています。