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本牧神社(本牧十二天社)(wikipedia・本牧神社)
[本牧神社(旧称・本牧十二天社)は旧来、本牧岬の先端(現本牧十二天一番地)に張り出した出島の中に鎮座し、巨古木蒼然たる杜に囲まれ、鳥居の脚元には波濤打ち寄せる風光明媚な鎮守様でした。その様子は江戸名所圖絵にも「本牧塙 十二天社」として描かれ、江戸湾を往来する廻船からは航海安全の神、地元民からは生業の守護神と崇められ、八百年以上の永きに亘り本牧の地に鎮座して人々のあつい信仰を受け続けていました。
伝記には、建久二年(1192年)、源頼朝公が鎌倉幕府を開くにあたり、鬼門(北東の方角)守護を祈念して平安時代から存せる神殿に六尺×四尺の朱塗厨子を奉納したとあります。
また、鎌倉将軍惟康親王より社領の寄進を受け、さらに室町中期には、関東管領より社領の寄進を受けました。天正年間には徳川家康公の関東入国に際し、高十二石免御朱印の下知があり、以来、徳川十五代将軍より「御代々頂戴」―とあり、方除け、厄除けにご神徳が顕然として、武家や庶民から篤く崇敬されていた様子が判ります。また、別当寺であった多聞院の由緒書によると『弘長三年(1263年)正月元朝、滄波洋々たる海中に炫爛として皎明を発し、一の大日靈女命(天照大御神)の像、今の社地の海岸に漂い給いしを郷人恭しく祠宇を建て、本村の総鎮守と奉斎したり。去るほどにいつの頃か僧侶の手により本地垂迹の説を継いで仏説十二天(日天、月天、火天、水天、風天、地天、梵天、毘沙門天、大日財天、閻魔天、帝釈天、羅刹天の十二神)を神前に祀り、本体大日靈女命を深く秘したり(今に古老は当の本体は本殿の背後より拝するものとする風あり)』とも記されており、十二天社の呼称のいわれを伝えています。
一尺二寸の十二体の天像は、明治初年の神仏分離令によって分けられ、本体の大日靈女命を祀って「本牧神社」と改称されました。
先の大戦において、横浜は大空襲の惨禍により市街の多くが焼け野原となりました。更にこの本牧地区は、終戦直後の昭和21年から、二十三万坪に及ぶ進駐軍の強制接収に遭い、以来、平成5年までの47年間、当神社も往古の境内地を失って本牧町二丁目への仮遷座を余儀なくされ、多くの氏子共々、苦難の時期を過ごしてきました。
米軍の接収が解除とともに、返還地域一帯は横浜市による区画整理事業が行われ、その結果、当神社の境内地は従前の「本牧十二天」ではなく、現在の「本牧和田」に換地されることとなりました。 (「本牧十二天社 – 本牧神社」より)]
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図 」・「本牧塙 十二天社」(6-5)、「十二天社宮解説」(6-2)
本牧塙 十二天社(拡大図)
カメラ北北西方向が本牧神社参道です。
本牧神社境内のカメラです。
カメラ北北西方向が本牧神社拝殿です。