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泥牛庵(でいぎゅうあん)
[金沢にある臨済宗円覚寺派の禅寺。
鎌倉時代も末期の頃、泥牛庵という一風変わった名のお寺が創建されました。
開基は、鎌倉幕府得宗家、第十四代執権北条高時、開山は鎌倉五山二位円覚寺第十一世、南山士雲禅師です。その名の由来から、創建は千三百二十五年乙(きのと)丑(うし)の春節(旧暦正月)の頃と伝わります。
正和五年(一三一六)七月高時公は幼少十三才で執権となりました。
その十年後、嘉暦元年三月(一三二六)高時公は金沢貞顕に執権を譲り、出家をします。しかしその貞顕も僅か一ヶ月で執権職を辞してしまいます(嘉暦の騒動)。高時公出家の前年が乙丑、学問に精通する貞顕公の計らいで、金沢領地に堂宇を造営し、自身の護持仏、観世音菩薩像を本尊に納め、翌年出家入道を果たしたと伝承されています。
高時公の法名は、出家をしたとされる寺(所在は不明)の日輪寺殿、泥牛庵の山号が吼月山、太陽と月、陰陽の対寺として誕生させたのかもしれません。
南山士雲禅師は、京都に赴かれ、南禅寺の住持を務めた後、自身の出身、藤原氏の菩提寺東福寺に住持し遷化されました。塔所は、東福寺山内塔頭の荘厳院と、円覚寺山内塔頭伝宗庵にあり、その遺骨は折半され両寺に埋葬されています。当庵には禅師の歯が一本分骨され、大切にお祀りされています。
享保七年(一七二二)皆川藩米倉家が柳沢吉保の六男を養子に迎え入れたことで六浦藩となり八景谷戸に陣屋を構えるにあたり当庵は現在の地へ移転となりました。 (「泥牛庵ホームページ – 泥牛庵について」より)]
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図 」・「泥牛庵解説-1・左ページより」(6-51)、「泥牛庵解説-2」(6-52)
カメラ北北西方向が泥牛庵参道です。