稲毛神社

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五海道其外分間延絵図並見取絵図(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)
川崎砂子宿図(拡大元画像・絵図中央右下に「堀ノ内村」と記述され、その左に「山王」と記述されています。)

稲毛神社
[創建の年代は不詳であるが、社伝によれば、武甕槌神を祀って天皇の軍の戦勝を祈ったのに始まると伝えられる。景行天皇が東国巡行の際に、当社で賊難を避けたという。欽明天皇が東征のとき、新たに配祀神四神を祀り、以降長らく勅願所とされたと伝えられる。当初は祭神の名前から「武甕槌宮」と称していた。平安時代末期、この地を領有した河崎基家山王権現勧請して以降、「河崎山王社」「堀之内山王権現」などと呼ばれるようになった。明治元年、関東へ下降する有栖川宮熾仁親王が当社で休憩し、その際、「神仏習合に基づいた「山王」の社名は新政府の神仏分離の方針にふさわしくない」と言ったことから、社名を旧地名の武蔵国稲毛庄にちなんで「川崎大神稲毛神社」とし、明治中頃に「稲毛神社」の名が定着した。明治6年、郷社に列格した。昭和41年(1966年)、神社本庁の別表神社に加列された。
稲毛神社鳥居と拝殿・wikipedia-photo

  (wikipedia・稲毛神社より)]

[稲毛神社は、平安時代末期に川崎の地を領有していた河崎冠者基家が山王権現を勧請して以後、「河崎山王社」または「堀之内山王権現」などと呼ばれ、勝利と和合の神様として長く信仰を集めてきた。江戸時代には川崎宿の鎮守として地元住民の崇敬を集め、当時は毎年6月15日に行われていた例大祭「河崎山王まつり」は、その盛況なさまから「東の祇園」と称され、東海道の名物のひとつにもなっていたという。しかし、大政奉還後の慶応4年(1868)4月、東征大総督・有栖川宮熾仁親王による「新政府の神仏分離の方針にふさわしくない」との意見から、鎮座地の武蔵国稲毛庄の名をとって「川崎大神稲毛神社」に名称を変え、明治中期には「稲毛神社」の名が定着した。  (「かわさき区の宝物シート」より)]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図 」・「河崎山王社」(5-5)、「堀之内山王権現宮解説・右ページ5行目より」(5-4)
河崎山王社(拡大図)

雲霧不動明王 – Google Map 画像リンク」「稲毛神社 – Google Map 画像リンク」「御神木大銀杏 – Google Map 画像リンク」「堀田稲荷神社 – Google Map 画像リンク」「子神社 – Google Map 画像リンク」「大鷲神社(稲毛神社境内社) – Google Map 画像リンク

カメラ東方向が稲毛神社参道です。

稲毛神社参道のストリートビューです。

稲毛神社拝殿前のストリートビューです。

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