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五海道其外分間延絵図並見取絵図(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)
茅ヶ崎村図(拡大元画像・絵図中央の「茅ヶ崎村」右方向「字第六天山 御林」下に「第六天」と記述されています。)
第六天神社
[第六天神社(だいろくてんじんじゃ)は、神奈川県茅ヶ崎市十間坂にある神社。神仏習合の時代には第六天社とも呼ばれていた。
祭神
●淤母陀琉命(オモダルノミコト/淤母陀琉神)
●妹阿夜訶志古泥命(イモアヤカシコネノミコト/訶志古泥神)
※明治維新後の神仏分離によって、祭神は第六天魔王(他化自在天)から変更された。
御神徳
近年では生産製造建設に関する守護神として尊崇されているが、かつての祭神であった第六天魔王は身の丈が二里(約8km)、寿命は人間の千六百歳を一日として一万六千歳とされており、身体壮健や不老長寿、また旧東海道を旅していた人々の道中安全の守護神として崇められていた。
由緒・歴史
創建時期
創建時期は不詳だが、当社は文献において江戸幕府が天保12年(1841年)に編纂した『新編相模国風土記稿』に初見されており、郷土草創期である江戸時代初期の創建といわれている。一方で、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には当地である「十間坂」の地名が記されており、元弘3年(1332年)に新田義貞が鎌倉攻めを行った際にその兵火の祝融にあったとも伝わっていることから、鎌倉時代の創建とも考えられている。
神仏分離と祭神の変更
江戸時代まで当社は金剛院(現在も茅ヶ崎市南湖に所在)の守護神とされてきたが、1872年(明治5年)に行われた神仏分離によって茅ヶ崎市十間坂の鎮守となった。またその際には祭神も他の多くの第六天神社と同じく第六天魔王(他化自在天)から変更され、現在の淤母陀琉神・訶志古泥神(天神七代の神々の内、『古事記』における第六代の神)となっている。なお、『日本民俗学 No.127』によると、『新編武蔵国風土記稿』より三百二十余社、『新編相模国風土記稿』より百四十余社、『増訂・豆州志稿』より四十余社の「第六天神社」が確認できたとあるように江戸時代末までは関東を中心に多くの第六天神社が存在したが、神仏分離によって多くの神社が改称あるいは他の神社に合祀されたか相殿や末社となっており、神奈川県神社庁の『かながわの神社・ガイドブック』(1997年、かなしん出版)によると、現在でも「第六天神社」の社号が残る神奈川県神社庁下の独立神社(宗教法人格を持つ社)は当社を含み二社のみとなっている。
第六天神社鳥居・wikipedia-photo
第六天神社拝殿・wikipedia-photo
ウィキメディアコモンズには、第六天神社_(茅ヶ崎市)の画像またはその他のファイルが含まれています。 (wikipedia・第六天神社_(茅ヶ崎市)より)]
「第六天神社(茅ヶ崎) – Google Map 画像リンク」
カメラ北方向が第六天神社参道です。