苅部本陣跡

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五海道其外分間延絵図並見取絵図(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)
保戸ヶ谷宿図(拡大元画像・絵図東海道中央右方向、「く」折れ角に「本陣」と記述されています。)

苅部本陣跡
[苅部本陣(かるべほんじん)
 現在は写真の通り通用門だけが残っていますが、往時建坪が270坪もあり部屋数18、畳数140は東海道本陣の中でも十指(宿村大概帳の建坪順とすると23/184、なにを持って十指としたかは不明)に入っていました。
 苅部本陣を定宿にしていた参勤交代の大名はなかったが、年間10藩程度の宿泊はあったらしい。しかしその格式と引き換えに制約や出費も多く、経営は必ずしも楽ではなかったようです。資料によると苅部本陣は代々人格者であったことと、財政的には紀伊國屋 文左衛門の次男新四郎の入婿により明治3年の宿駅制度廃止まで役目を全うしました。
 参勤交代の大名は旅行に必要な道具は総て携行したと云われています。屏風、風呂、便器まで携行し、もちろん自炊であり、本陣・脇本陣は座敷を提供するだけでした。戦の遠征軍と同様で、ただ野営しなかっただけのようです。したがって宿泊料も心付けでした。
 その額は次の通りでかなり厳密にきまっていたようです。
「五千石より萬石内外の往来、休みにして金百疋~二百疋或いは銀壱枚、宿泊にして二百疋~五百疋位までなり・・・往来、休みにして二枚から三枚、宿泊にて一両から三両まで、十七八萬石より七十萬石の家にてもさしたる差別なきものなり・・・」  (「7 本陣・脇本陣・茶屋本陣」より)]

苅部本陣跡 – Google Map 画像リンク」「保土ケ谷宿本陣跡 – Google Map 画像リンク

カメラ南南西方向に苅部本陣跡案内板があります。

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