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五海道其外分間延絵図並見取絵図(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)
戸塚宿図(拡大元画像・絵図東海道中央上に「本陣」と記述され、「本陣」の左下と、右方向石橋上に「脇本陣」と記述されています。また「本陣」左下の「脇本陣」左方向に「問屋場」、右方向「脇本陣」の左下に「問屋場」と記述されています。)
蒔田本陣跡
[このあたり一帯が藤沢宿のあったところで、歩道には本陣跡を記す案内板がたっています。本陣というのは、宮家、公家、大名が休泊した施設で、13間あり、一般庶民は休泊できませんでした。江戸時代初期は大久保町の堀内家が藤沢宿の本陣でしたが、類焼のため坂戸町の蒔田家が明治三年まで約百二十年間その要職にありました。総坪数約400坪、門構え庭園等があり堂々たる家でしたが、現在は妙善寺にその墓域を残すのみとなってしまいました。藤沢宿には、享和三年(1703)当時で、本陣1軒、脇本陣2軒、旅篭46軒がありました。また、人馬の割付・管理を行う問屋場が旧大久保町(近藤眼科医院付近)と旧坂戸町(消防署本町出張所付近)に設けられていました。 (「11-蒔田本陣跡 | ふじさわ宿交流館」より)]
[江戸幕府は、東海道を往来する幕府の役人や大名、公家などの専用宿舎として、各宿場に本陣を指定しました。江戸時代に 外交使節として日本を訪れた朝鮮通信使も国賓待遇の使節ということで、蒔田本陣に宿泊した記録があります。通常、本陣には その他の旧家や富裕層等、有力宿民が指定され、家屋の格式も特別なものでした。江戸時代の地誌「相中留恩記略」に記された 蒔田本陣の図からも、他とは画然とした本陣の様子が判ります。
『蒔田本陣跡』説明より (「蒔田本陣跡(名右衛門)」より)]
「藤沢宿 蒔田本陣跡(解説板) – Google Map 画像リンク」
カメラ北東方向に蒔田本陣跡案内板が設置されています。