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五海道其外分間延絵図並見取絵図(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)
帷子町図(拡大元画像・絵図東海道左方向、「帷子町」上方向に「香象院」と記述されています。)
香象院
[香象院(こうぞういん)の創建は不詳。江戸時代末期、保土ケ谷宿では最も大きな寺子屋があり、明治 6 年(1873)に保土ケ谷小学校の分校となりました。墓地には寺子屋の先生であった安達清墨庵先生と保土ケ谷の郷土史研究に尽力された、磯貝正、磯貝長吉両先生の墓があります。また、昭和 8 年(1933)に磯貝正氏によって発見された紺紙金泥(こんしきんでい)の古写経があります。大般若経第五百六拾巻で、鎌倉時代初期のものとされています。 (「ようこそ 歴史と自然の街 保土ケ谷へ。 – 横浜市」より)]
[高野山真言宗の香象院は、在田山安楽寺と号します。忠秀法印が開山となり天正11(1583)年に創建したといわれています。江戸時代には、浅間神社の御輿庫や天王様の御旅所があったと言われています。また、保土ヶ谷宿で最大の寺小屋があり、明治6(1873)年には保土ヶ谷小学校の分校となっていました。旧東海道に面して二つの大きな鉄釜が据えられています。この鉄釜は本堂に前に置かれた「天水桶」だったそうで、本堂の再建に当たってここに持ち出され、その時、危険防止の為に大きな蓋を付けたそうです。本堂の左に、保土ヶ谷郷土史家・磯貝正氏の功績を称えた碑があります。 磯貝正は、東京帝国大学文学部史学科を卒業し、「時宗の研究」・「榛谷御厨の研究」の論文を発表しました。後に、県、市の史学調査官となり、「保土ヶ谷区郷土史」上下二巻の編集に心血を注ぎましたが、病により、1938(昭和13)年6月8日、32歳の若さでなくなりました。ほか、幕末の保土ヶ谷宿で寺子屋の師匠として、また歌人・俳人として、大きな足跡を残した安達月讖(げっしん)の墓碑もあります。 (「Enjoy! YOKOHAMA -横浜ブログ- : 香象院」より)]
カメラ北西方向が香象院参道で、参道左右に鉄釜が置かれています。
鉄釜横参道のカメラです。