掲載されている「甲州道中分間延絵図」は「東京国立博物館 画像検索」の「カテゴリー-歴史資料」の検索欄に「甲州道中」と記述して利用しています。
絵地図をスクロールすると中程に「臺ヶ原宿」と記述され、その上に宿場が描かれています。
絵地図をスクロールすると中程過ぎに「教来石宿」と記述され、その上、左右に桝形がある宿場が描かれ、右方向流川に渡渉が描かれています。
絵地図をスクロールするとに「蔦木宿」と記述され、その左下に宿場、その左右に桝形が描かれています。
絵地図左下に「金澤宿」と記述され、その右上に宿場が描かれています。
絵地図をスクロールすると右下に「金澤宿」と記述され、その上に宿場と宮川に架かる橋が描かれています。
絵地図に「上諏訪宿」と記述され、その上に東桝形が描かれています。
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」- 「上諏訪 富士山遠景・巻之5 – 5」
「上諏訪神宮寺・巻之5 – 7」
[神宮寺とは、神仏習合で神社に付属して造られた寺院のことです。後発とはいえ諏訪神社の神宮寺は栄えに栄え、神社側の“本家を乗っ取られた”も過言ではなかったようです。
しかし、明治以降は廃仏毀釈という逆風が吹き荒れ、諏訪神社の神宮寺といえども、法華寺を除き全て取り壊されました。現在は礎石すら残っていませんから、かつてここに伽藍があったとは全く想像できません。 (「諏訪神社神宮寺(跡)」より)]
絵地図をスクロールすると、「上諏訪宿」と記述され、その左上に東西の桝形を備えた宿場が描かれ、宿場下湖上に高島城が描かれています。
絵地図をスクロールすると「下諏訪宿」と記述され、その右に宿場が描かれています。また、絵地図左下に弁天島が描かれています。
大きかった諏訪湖
[諏訪湖の面積が最大となった時には、標高800m近くまで広がっていたことは、地質的に上諏訪中学校庭下の泥炭層、河湖成段丘の存在などにより確認されています。この標高で湖畔線を推定しますと、岡谷の湊側は中央道下になり、諏訪大社の上社、茅野市の西山団地、坂室、茅野市役所、そして諏訪市の清陵高校上、上諏訪中学校付近、温泉寺を経て、下諏訪町の諏訪大社下社の秋宮付近、岡谷市の長地中村、山の手、川岸へと結ぶことになります。その後、湖面は河川からの土砂流入と天竜川の釜口の河床低下による湖水位の低下により縮小されていったといわれています。さらに、江戸時代の浜中島、弁天島の撤去などの湖尻の切り開きや埋立て、干潟の出現により小さくなっていきました。明治18年の測量では、湖の面積は約 14.5 ㎢ とされています。その後の埋立て、干潟の出現、湖底の浚渫土による埋立てにより、現在の湖面積は約 13.3 ㎢ となっています。また、宮坂宮司(八剱神社)は、「八剱神社には、江戸時代の諏訪湖を写した絵図があります。これらをずいぶん諏訪湖の大きさが違っていたことがわかります。また、鎌倉街道を結ぶ線が、この標高800m と一致しますし、諏訪大社をはじめ、手長、足長神社等の主だった神社もこの街道沿いにあります。その後、甲州街道、国道 20 号と主だった道の位置が変わっていったのは、湖面の変化と無関係ではないでしょう。」と指摘されました。 (「9.諏訪湖にまつわる話し – 長野県」より)]
葛飾北斎-富嶽三十六景『信州諏訪湖』(wikipedia-photo)
[江戸時代には諏訪湖は名所として知られ、江戸後期には浮世絵師の葛飾北斎が天保元年(1830年)から天保6年(1834年)にかけて刊行した連作『冨嶽三十六景』や、同じ天保年間刊行の『景勝奇覧』において諏訪湖から見える富士山を描いている。 (wikipedia・諏訪湖#絵画・写真より)]
[浜中島撤去後の釜口には弁天島が残り、葛飾北斎の「富嶽三十六景・信州諏訪湖」には遠く富士山、高島城を望み、一番手前中央に弁天様の祠のある弁天島が描かれている。 (「【諏訪湖の治水】 五六郎の阿呆丸」より)]
葛飾北斎 景勝奇覧 信州諏訪湖