甲州道中分間延絵図(犬目宿石畳-笹子峠)

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絵図を右にスクロールすると「上鳥沢宿」、「下鳥沢宿」と記述され、下にそれぞれ宿場が描かれています。右の桝形から宿界までが「上鳥沢宿」、そこから左の桝形までが「下鳥沢宿」、「上鳥沢宿」の中間上方向に福地八幡神社、左桝形上には諏訪神社(西ノ宮神社)が描かれています。

絵図を右にスクロールすると「猿橋宿」と記述され、その左に桂川渓谷に架かる「猿橋」、その左に宿場が描かれています。
歌川広重 『六十余州名所図会 甲斐 さるはし』(wikipedia-photo)

歌川広重 『甲陽猿橋之図』(メトロポリタン美術館)

絵地図初期画面に「大月宿」と記述され、左に宿場、その左に桂川と富士山道追分が描かれ、甲州道中が桂川沿いを北上して描かれています。また絵地図を右スクロールすると「駒橋宿」が記述され、そこの右に宿場が描かれています。
葛飾北斎-千絵の海『甲州火振』(wikipedia-photo)

[『千繪の海』シリーズの一作。夏の夜に松明の火で山女魚を誘って捕らえる「火振漁」を描いた図。甲州街道沿いの桂川周辺(上野原市大月市)の風景か。火振漁は甲斐国のみならず各地で行われており、甲斐では桂川(相模川水系)や早川(富士川水系)において行われていた記録がある。1832-34年(天保3-5年)頃作。  (wikipedia・葛飾北斎と甲斐国より)]

絵地図初期画面下に「下花咲宿」と記述され、上に宿場が、そこの左に稲村神社が描かれています。また絵地図を右スクロールすると「大月宿」との境界の桂川に架かる板橋が描かれています。

絵地図を右スクロールすると「上花咲宿」と記述され、その右上に宿場が描かれています。
  

 
絵地図を右スクロールすると「下初狩宿」と記述され、その下に宿場が描かれ、宿場内を横断する二筋の流れの右側に聖護院道興歌碑があることになります。宿場左の川筋が宮川で宮川橋が描かれています。宮川橋の左方向・絵地図左端の集落が「中初狩宿」になります。

絵地図を右スクロールすると「中初狩宿」と記述され、その下に宿場が描かれています。

絵地図上に「白野宿」と記述され、その下に宝林寺、その下に宿場が描かれています。絵地図を右にスクロールすると街道を横断する川筋が描かれています、これは滝子川になります。
  

絵地図を右スクロールすると「白野宿」と記述され、その下に宿場が描かれています。そこの左の流れは大鹿川で街道に大鹿川橋が描かれています。
  

絵地図初期設定左上に「黒野田宿」と記述され、下に宿場が描かれています。絵地図を右にスクロールすると、「阿弥陀海道宿」と記述され、下に宿場が描かれ、笹子川に架かる板橋が描かれています。

絵地図を右にスクロールすると、「黒野田宿」と記述され、下に宿場が描かれ、宿場左に笹子川に架かる板橋が描かれています。

葛飾北斎富嶽三十六景「甲州三嶌越」(wikipedia-photo)

[三島越とはいわゆる鎌倉往還のことで甲斐国から駿河に至り「いざ鎌倉」の道で、具体的には、河口湖~山中湖~籠坂峠(山梨・静岡県境)~御殿場~三島のコースです。
この画は通説通り、籠坂峠から見た富士山ですが中央の大きな木は当時から現在まで存在が確認されていません。特に富士山の東側は宝永の噴火の影響を直接受けており、火山灰等がかなり堆積した場所でもある理由から巨木が無事でいる理由も薄いと考えられます。
 おそらく北斎が巨木を配置した理由は「宝永火口」を隠すためという説はおおよそ正しいと思います。また、この巨木は笹子峠の「矢立の杉」を拝借したと個人的に考えています。北斎自身も「北斎漫画」の中でも「矢立の杉」を描いていますし、広重(二代)も「諸国名所百景」の中で「矢立の杉」(wikipedia-photo)を描いています。広重に至っては北斎と同じく旅人が巨木の大きさを測るために腕を広げて木の周りに寄り添っています。北斎も「矢立の杉」を見たときの感動を富嶽三十六景のどこかで使用したかったに違いありません。理由はどうであれ、峠道の高度感と大変さが巨木と休憩によって程よいバランスが保たれているように感じるのは私だけでしょうか?  (「葛飾北斎の甲州三島越(富嶽三十六景) – 富士山はどの場所の」より)]
葛飾北斎-北斎漫画 七編『甲州矢立の杉』(メトロポリタン美術館)

甲州道中分間延絵図(小仏関跡-犬目宿石畳)  甲州道中分間延絵図(笹子峠-大武川)