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城所莊藏商店
[城所莊藏商店(荒物加島屋)の店蔵が建てられたのは、今から120年前の明治20年(1888年)。当時の加島屋様は、専売制だった塩やせっけん・油など日用雑貨の卸問屋でした。建築された時は、今より横幅が狭かったそうですが、その後、右側の間口を柱1本分増築して現在の姿になりました。商いをする場所として、また、商人をめざす若者を住み込みで学ばせていたので、別名「加島屋学校」とも呼ばれていました。何人もの若者がここで読み書きそろばんを身につけ、巣だっていったのです。
太いムクのケヤキの構造材には更に漆を塗って耐久性を増してあり、築後120年経った今でも、割れや狂いがまったくありません。お聞きすると、当時は木を選ぶのにまず10年。伐採後の自然乾燥にも10年はかける時代だったといいます。専門家によると、同じものを今建てようとしたら坪500万円は下らないとか。いや、これだけの銘木を集める事自体もう難しいかもしれません。
大正12年(1923年)9月1日。関東地方にM7.9の大地震が発生しました。関東地震(関東大震災)です。11:58の本震に続き、同日12:01にはM7.3、12:03にはM7.2の余震が。店蔵も大きな揺れに襲われましたが、幸い屋根瓦の落下被害に留まりました。大火災にみまわれた東京や横浜に比べ、倒壊家屋も少なかった八王子ですが、当時の東京左官職組合の記録によると、この大地震に耐えた土蔵は100軒前後に過ぎなかったようです。大正期まで残っていた江戸名残りの蔵は東京からほとんど消えてしまいました。
この地震の教訓から、店蔵は大規模な改修工事を受けます。外壁をコンクリートで覆うとともに、防火性能の高い重量シャッターを設置。継ぎ目なしの大きな1枚扉。ドイツ製の輸入品でオーダーメイドだそうです。今でも当時の機械のまま、摩耗やゆるみもなくスムーズに動作しています。この備えが、後日、大火から店蔵を守ることになりました。
関東大震災から22年後、二度目の災禍が店蔵を襲います。昭和20年(1945年)8月2日未明。八王子大空襲です。B29約170機が焼夷弾67万発を投下、旧市街地の約80%を焼失します。観音開扉(かんのんひらきとびら)とシャッターをしっかり閉ざし、皆で避難。次々と焼夷弾が降り注ぎ、店蔵にも何発かが当たりました。周囲の家屋は次々と炎上し、あっけなく崩れ落ちていきます。
空襲が終わり、避難していた店員さん達が店蔵に戻ったところ、建物の一部がくすぶり、隙間から薄い煙が外に漏れていました。不用意に戸を開けると、外気(酸素)が入り一気に燃え上がってしまいます。外側から何度も水をかけて、それ以上火が広がるのを防ぎ、その後、3日間蔵を閉ざしたまま自然鎮火を待ったそうです。3日目になって、恐る恐る開けて中をのぞいたところ、太い梁は芯まで燃えることなく、表面だけ炭化して自然鎮火していました。裏手にあった母屋こそ焼失したものの、店蔵はみごと猛火に耐えたのです。今でもお店の入口の右に、空襲で焼け焦げた跡を見ることができます。 (「八王子よいとこ/120年の店蔵 : 東京八王子UTR不動産の八王子見て歩記」より)]
カメラ北方向が城所莊藏商店です。