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日野の渡し
[元々はこれより上流の立日橋(たっぴばし)の下流に「日野の渡し」があり、日野宿が町村制導入後は日野町が経営していた。 (wikipedia・日野橋より]
[日野渡船場跡
日野の渡しは、現在の立日橋付近で柴崎(立川市)と日野を結んでいた多摩川の渡しで、江戸時代貞享年間(1684~1688)以前は農耕のための作場渡しとして利用されていた。この頃、甲州街道は下流の青柳(国立市)付近から万願寺渡船場から多摩川を渡り、万願寺一里塚を経て日野宿に至っていた。貞享元年、甲州街道は青柳より上流の柴崎から日野渡船場で多摩川を渡り、日野宿に至る道筋に改変された。これに伴い、日野の渡しは府中宿と日野宿を結ぶ正式な渡しとなり、日野宿の経営となった。三月から十月までは渡船、渇水期の十月から翌三月までは土橋だったが、文政七年(1824)以降は一年中渡船となった。渡し賃は人と馬で別々に徴収されたが、武士、僧侶、宿の人々は無料で通行できた。明治維新後も日野渡船場の経営は日野町へ受け継がれるが、大正15年(1926)日野橋の開通によって渡船は廃止となった。 日野市教育委員会]
[日野の渡し碑
日野の渡しの出来たのはいつの頃だか誰も知らない、江戸時代中期貞享年間この地に渡しが移されたことは確かであろう。かつて信濃甲斐相模への人々は、この渡しを過ぎると遠く異境に来たと思い、江戸に向かう人々は江戸に着いたと思ったという。 (「渡し碑コレクション/日野の渡し」より)]
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「日野津」(10-23)
カメラ東南東方向に日野の渡し碑があります。