内藤新宿(ないとうしんじゅく)は、江戸時代に設けられた宿場の一つ。甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった。現在の住所では、東京都新宿区新宿一丁目から新宿二丁目・三丁目の一帯にあたる。
東海道の品川宿・中山道の板橋宿・日光街道(奥州街道)の千住宿と並んで、江戸四宿と呼ばれた。地名から四谷新宿と呼ばれることもある。
内藤新宿は玉川上水の水番所があった四谷大木戸から、新宿追分(現在の新宿三丁目交差点付近)までの東西約1kmに広がり、西から上町・仲町(中町)・下町に分けられていた。宿場開設に尽力した高松喜兵衛は、喜六と名を改め内藤新宿の名主となり、以後高松家当主は代々喜六を名乗り名主を務めた。開設当初はこの高松家が本陣を経営していたが、のちに本陣が存在しない時期もあるなど、火災による焼失や宿場の廃止・再開による混乱もあり、本陣や脇本陣に関しては一定していない。
宿場内では次第に旅籠屋や茶屋が増え、岡場所(色町)としても賑わっていった。宿場に遊女を置くことは認められていなかったが、客に給仕をするという名目で飯盛女・茶屋女として置かれていた。享保3年(1718年)には、宿場内に旅籠屋が52軒という記録が残っている。吉原がしばしば奉行所に提出していた遊女商売取り締まり願いの対象にもなり、これが宿場廃止となった原因の一つという。
享保3年(1718年)10月、内藤新宿は幕府によって廃止される。宿場開設より20年足らずでの決定であった。このため、高井戸宿が再び甲州街道最初の宿場となった。廃止により旅籠屋の2階部分を撤去することが命じられ、宿場としての機能は失われた。町そのものは存続したが、賑わいが消え人口も減少していくことになる。
また、元禄15年(1702年)2月と正徳6年(1716年)正月には、火災で大きな被害を出している。 (wikipedia・内藤新宿より)
「甲州道中分間延絵図」は東京国立博物館検索の「歴史資料」より「甲州道中分間延絵図」で検索して、文化3年(1806)完成の「甲州道中分間延絵図_9巻之内1」からコピーして使用しています。
絵地図初期設定画面右下に「内藤大和守屋鋪」、その上に「二十五騎」と記述されています。「二十五騎」左下の街並み十字路、左下に太宗寺があり、絵地図左上に花園神社が描かれています。絵地図を右にスクロールすると、内藤新宿街並み区画右下に四谷大木戸が描かれています。
絵地図初期設定画面に「角筈村」「千駄ヶ谷村」と記述され、「千駄ヶ谷村」上方向に熊野神社(十二社権現)が描かれています。絵地図を右にスクロールすると二又が描かれ、そこが新宿追分になります。そこの下に「天龍寺」と記述され、そこの左上街道端に高札が描かれ、そこの左の区画は天龍寺門前町(新宿区新宿4丁目1)になります。
絵地図初期設定画面中央下に「代々木八幡宮」が描かれています。絵地図を右にスクロールすると「千駄ヶ谷村」「角筈村」と記述されています。
絵地図初期設定画面右に「幡ケ谷村(渋谷区幡ケ谷)」と記述され、左端手前街道に笹塚一里塚が描かれ、「幡ケ谷村」左上に「雑色村之内(中野区弥生町・南台)」と多田神社が描かれています。