美濃路(みのじ)は江戸時代に東海道・宮宿と中山道・垂井宿とを結んだ脇往還(脇街道)である。
美濃路の原型は古代において東海道から尾張国の国府を経由して美濃国にあった東山道の不破関に出る経路であったと考えられている。当時の正規の東海道は尾張国から伊勢湾を横断して伊勢国に渡ることになっていたが、東国から馬で奈良・京都に向かう場合に馬と一緒に伊勢湾を渡ることができず、近隣の住人に馬を預けてトラブルになることがあった(『日本書紀』大化2年3月甲申条)。このため、徒歩あるいは馬で西に向かう人はこのルートを用いたとみられている。
関ヶ原の戦いにおいては、東軍の先鋒である福島正則が起(愛知県一宮市)から美濃へ進軍し、戦いに勝利した徳川家康が凱旋した道で、「吉例街道」とも呼ばれ、将軍上洛時にも使われた。朝鮮通信使、琉球王使、お茶壺道中などが、この美濃路を通行した。
東海道では、宮宿と桑名宿の間に七里の渡しが存在しており、江戸時代は水難事故も起こりやすい難所とされていたため、東西を移動するのに遠回りであっても海路を避けられる美濃路が好まれることがあった。 (wikipedia・美濃路より)
「五海道其外分間延絵図並見取絵図」は、江戸幕府が東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道及びその主要な脇街道の実態を把握するために作成した絵図。道中奉行の直轄事業として寛政12年(1800)から7年の歳月を費やして完成した。 (「五海道其外分間延絵図並見取絵図 – 文化遺産オンライン」より)
「美濃路見取絵図」は東京国立博物館検索より「美濃路見取絵図」で検索して、「美濃路見取絵図_2巻之内1」、「美濃路見取絵図_2巻之内2」の画像を使用しています。
「国際日本文化研究センター(日文研)」 – 「最近名古屋明細地圖(明治43(1910)年」
東海道、西浦(常滑街道)、東浦(師崎街道)、美濃路見取絵図(宮宿)、熱田神宮、熱田・堀川沿い、佐屋街道、美濃路見取絵図(名古屋宿)、名古屋宿門前町周辺、名古屋東照宮・那古野神社(亀尾天王社)、名古屋城、下(した)街道(善光寺街道)、上街道、駿河街道(飯田街道)、高針街道、山口街道、瀬戸街道、四間道(しけみち)・新道筋周辺、美濃路見取絵図(清州宿)、岩倉街道、津島街道、津島神社、八神街道、美濃路見取絵図(稲葉宿)、鮎鮓街道、御囲堤、犬山城周辺、美濃路見取絵図(萩原宿)、美濃路見取絵図(起宿)、美濃路見取絵図(墨俣宿)、美濃路見取絵図(大垣宿)、美濃路見取絵図(垂井宿)