御油宿
[御油宿は慶長6年(1601)に東海道の宿駅として定められた宿場町で江戸日本橋から数えて35番目にあたります。天保14年(1843)に編纂された「東海道宿村大概帳」によると本陣4軒、脇本陣0軒、旅籠62軒、宿場の長さは9町32間(1298m)、家屋316軒となっています。東海道と姫街道との分岐点として多くの大名や旅人達から利用し本陣が4軒以上は東海道の宿場町としては箱根宿(6軒)、浜松宿(6軒)に次ぐもので旅籠の軒数も上位に位置しています。又、吉田城下、赤坂宿と共に飯盛女や遊女が多く、旅人だけでなく近隣の歓楽街としても発展し「御油や赤坂吉田がなくばなんのよしみで江戸通い」や「御油や赤坂吉田がなけりゃ親に勘当うけやせぬ」、「折り折りは 馬も御油にて 抱きつかれ」などの俗謡や川柳が流行り、安藤広重によって描かれた東海道五十三次の御油宿では「旅人留女」の題材で遊女の客引きのすごさが際立っています。隣の宿場町である赤坂宿からは僅か1.7kmと東海道中の宿場間の距離の中で最短距離とされ、その短さから当初の伝馬朱印状には赤坂宿と御油宿が1つの宿として取り扱われ、松尾芭蕉には「夏の月御油より出でて赤坂や」と詠まれています。宿場外れには街道の面影を残す松並木が残っていて「御油の松並木」として国指定天然記念物に指定されています。 (「東海道:御油宿(豊川市) – 愛知県:歴史・観光・見所」より)]
『絵本駅路鈴』-御油(拡大画像リンク)
『春興五十三駄之内』-御油(拡大画像リンク)
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、
『元冬里
あつまより春立のほる馬つきは/霞の手綱いさきよう引く
堪忍時雨龍
松風のしらへる琴の音羽川/橋に霞の糸を引はる
八声明近
去年今年ここに二見のわかれ道/たつ霞あり残る雪あり』です。]
赤坂宿
『絵本駅路鈴』-赤坂(拡大画像リンク)
[赤坂(現在の愛知県豊川市)の図は、茶屋で休憩する旅の男女を描く。看板の「うんどん」は饂飩(うどん)のこと。奈良時代に中国から伝わった小麦粉製の唐菓子「餛飩(こんとん)」から転じて、「饂飩(うんどん・うどん)」となったという。平安・鎌倉時代には点心として発達し、江戸初期の料理書『料理物語』には現在とほとんど変わらない製法が紹介される。赤坂宿のある三河地方では平打ち麺が有名で、産地に因んで「芋川(いもかわ)」と呼ばれた。江戸では訛って「ひもかわ」と呼ばれ、尾張名古屋ではきしめんと呼ばれた。 (「作品解説(107番)」より)
『春興五十三駄之内』-赤坂(拡大画像リンク)
[赤坂宿と藤川宿の間の宿の本宿は往古より、街道とともに開けた地であり、中世以降は法蔵寺の門前を中心に町並が形成された。
鎌倉街道は東海道の南、法蔵寺裏山辺りを通り、鉢池から宮路山中へと続いていた。 近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿の中間に位置する村としての役割を果たしたといえる。 享和2年(1802)の本宿村方明細書上帳によれば、家数121軒、村内往還道19丁余、立場茶屋2か所(法蔵寺前、長沢村境四ツ谷)があり、 旅人の休息の場として繁盛をきわめた。
東海道中膝栗毛に 「ここは麻のあみ袋、早縄などあきなふれば北八、みほとけの誓いとみえて宝蔵寺、なみあみ袋はここの名物」 とある。 本宿は古くから麻縄(召縄)、麻袋、麻紐などの麻細工が盛んであった。 (「本宿村説明」より)]
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、
『浅花菴皮人
とその酒汲さかつきの赤坂や/初日の影のさす宮路山
深月亭照景
仙人ハ松をさかなに汲かすミ/ゑふたる色の赤坂の里
渚玉頼
さほ姫かかけて戸帳と宮路山/にしきに霞む春の明ほの
浅倉菴三笑
青柳の糸もて網をすくときハ/枝うつりする鶯ハ針』です。]
藤川宿
『絵本駅路鈴』-藤川(拡大画像リンク)
[「藤川宿」は品川から数えて37番目の東海道の宿場です。
宿場の入口を示す「棒鼻」や資料館として開放されている藤川宿脇本陣跡や、そこに保存されている高札などから宿場の雰囲気がうかがえます。
松並木は1km程の間にクロマツ約90本がそそり立ち、往時の旅の風情を漂わせています。中には高さ30mもの巨木もあります。
この松並木は1963年に市の天然記念物に指定されました。 (「藤川の松並木 – 岡崎の観光スポット」より)]
『春興五十三駄之内』-藤川(拡大画像リンク)
[藤川宿江戸口東方向の山綱川の土橋を渡る画だと思います。赤坂明神は現在の山中八幡宮になると思います。
『敷地内に「鳩ヶ窟」(はとがくつ)と呼ばれる洞窟があり、永禄6年(1563年)に起こった三河一向一揆の戦いで、徳川家康が敗れて逃げ隠れた洞窟といわれる。追手の兵がこの中を探そうとしたが、洞窟から白い鳩が2羽飛び立ったので、追手の兵は「人のいる所に鳩などいるわけない」といって通り過ぎ、家康は難をまぬがれたといわれる。その後、この洞窟を鳩ヶ窟といい、このことにより八幡宮の山を御身隠山(おみかくしのやま)と呼ぶようになった。 (wikipedia・山中八幡宮より)]
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、
『千歳菴振方
並木なる松にかかりてむらさきの/かすミや花のはるの藤川
花咲千枝人
雲のなミゆかりの色のかすミより/夕日なかるる藤川の宿
権少々夏蔭
いさましや駅路の馬の放所/さかり藤川はるの花かた
邉仁之?子
山畑に生ふ二ツ葉も霞てハ/むらさき麦(カ)とミゆる藤川』です。]
岡崎宿
『絵本駅路鈴』-岡崎(拡大画像リンク)
『春興五十三駄之内』-岡崎(拡大画像リンク)
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、
『長閑なる春や菅生のわたし守/にほひ吹こせ梅か川舟
兎六斎紀?㐂(カ)
馬帰公も今朝ハめつらん龍城の/のとかにたちし春の霞を
菅川亭浦内古則』です。]
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、
『浅花菴皮人
見わたせは霞の手綱引そめて/矢はきのはしる若駒か嶽
浅枝菴連人
くりのはせ矢矧の岸の青柳も/糸の長さを二百八間
浅倉菴三笑
とちらへもさハく心の駒かたけ/猿なけかけて霞む春の日』です。]
池鯉鮒宿
『絵本駅路鈴』-池鯉鮒(拡大画像リンク)
[知立市市名の由来
すでに、7世紀後半の木簡に「知利布」(ちりふ)とある。律令制以後の8世紀の木簡に「知立」とある。平安時代の『和名抄』に「智立」郷がみえ、江戸時代には「池鯉鮒」という東海道の宿場町として栄えた。知立神社を建てた伊知理生命(いちりゅうのみこと)にちなむという説もある。「池鯉鮒」の名は知立神社の御手洗池にコイやフナが多数いたことに由来する。 (wikipedia・知立市#市名の由来より)]
『春興五十三駄之内』-池鯉鮒(拡大画像リンク)
[池鯉鮒宿から恵那山方向を見る。左の池鯉鮒明神は現在の知立神社、右の八橋は無量寿寺を示すものと思います。]
[無量寿寺の所在地である八橋は、平安時代の歌人在原業平が「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」と句頭に「かきつばた」の5文字をいれて詠んだように、伊勢物語の昔から知られるカキツバタの名勝地である。花札の5月の10点札「菖蒲と八ツ橋」(「杜若に八ツ橋」とも)は当地がモデルである。また、京都の銘菓八ツ橋は一説にはこの八橋にちなむとされる。 (wikipedia・無量寿寺_(知立市)より)]
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、
『多羅太欄油小賣安方
此さとにたてる木綿のいちはやく/よいねを出せやとの鶯
美川庵?瀬はし麿
明神の和光と春のうららかに/かけミたらしの池の鯉鮒
不見只聞盲人
清らかなちりうに貝のすひ物を/すふや琥珀の玉のはつ春
東北斎美南女
駒の市たてるちりうに鶯も/霞の袖のうちに音をきく』です。]
鳴海宿
[もともと絞り染めの生産は有松のみで行われ、隣町の鳴海で販売されたものだった。当初は、蜘蛛の巣のような絞り模様を染めた手拭いを竹竿にかけて旅人に売って小銭を稼いだが、寛文年間(1661年~1673年)に馬の手綱に適した錣絞り(しころしぼり)が開発され、これを藩主に献上したことで広く知られるようになった。寛文年間には、紅や紫などの多彩な絞りも発明されて旅人の目を惹きつけ、しだいに技術も進歩して有松の絞り染めは大きな進歩を遂げた。『尾陽寛文記』によれば、1696年(元禄9年)の時点で有松村には2,3軒の絞り屋しかなかったものの、半世紀後には有松・鳴海地方一円で絞り屋が見られるようになったという。
有松での絞り染めが盛んになるにつれ、周辺地域でも絞り染めが生産されるようになっていった。なかでも東海道の宿駅として知られた隣村の鳴海においては、比較的早期に農家の副業の域を超えて絞り染めが行われるようになり、各工程で職工を雇って絞り染めを専業とする者もいて、「鳴海染め」の名で知られるようになった。他村で濫造された絞りには質の悪いものもあり、絞り製品そのものの評判を落とすこともあった。こうした状況に対し、有松は尾張藩に他地域における絞り染め生産の禁止を訴え、1781年(天明元年)尾張藩は有松絞りの保護のため、有松の業者に絞りの営業独占権を与えた。有松に「絞改会所(しぼりあらためかいしょ)」を置き、製品の規格を定めて検印を押すこととしたものである。ただし、絞りの生産が全て有松の町で行われていたわけではなく、鳴海を含む周辺地域への工程の下請けが広く行われていた。なかでも「くくり」の工程は、有松近辺の村々において婦女子の賃稼ぎとして広く普及した。1822年(文政5年)の「尾張徇行記」によれば、鳴海村や大高村など有松村以外で絞り染めを行う者は有松村に運上金を納めており、尾張藩の庇護によって有松が生産販売を一手に掌握していたことがうかがわれる。その後も絞り染めに対する統制は強化され、有松は尾張藩の庇護の下絞り染めの独占を続けたが、幕末になると天保の倹約令など凶作に苦しむ領民の生活扶助のため独占権が解除された。
尾張藩の保護によって高級な土産物として発展した有松絞りは、参勤交代や、武士や医者や商人など江戸に用あって東海道を往来した者たちによって、江戸をはじめ全国に知られるようになった。藩主の光友は、5代将軍綱吉に将軍職継承を祝して絹で絞った有松絞りの手綱を「くくり染め」と名付けて献上し、吉例とした。参勤交代の諸大名のほとんどが、竹田庄九郎を創業者とする「竹屋」で休息し、土産物として有松絞りを競って買い求め、江戸や大阪へもしばしば出荷した。その盛況ぶりは、当時の子どもが唄った盆歌「ぼんならさん」にも「ここはどこかと子供に聞けば ここは有松竹屋の店よ 店の飾りは鯉に滝 雲に竜 笹に虎」と唄われている。「竹屋」の2代目竹田庄九郎は17世紀後半に浴衣が一般に普及するに伴い、衣料としての絞り製品の開発に着手するとともに、藍染以外の染色の開発にも携わり、産業としての有松・鳴海絞りの基礎を構築したことでしられる。 (wikipedia・有松・鳴海絞り#江戸期における発展より)]
『絵本駅路鈴』-鳴海(拡大画像リンク)
『春興五十三駄之内』-鳴海(拡大画像リンク)
宮宿
[七里の渡しは、宮宿と桑名宿を結ぶ東海道唯一の海路で、その距離が七里(27.5km)であったことから、そう名付けられました。この海上ルートは、東海道の宿駅制度(制定は1616年頃といわれている)が設けられる以前、すでに鎌倉・室町時代から利用されており、古くから東西を結ぶ重要な交通インフラでした。もっと古くは、壬申の乱の際に、吉野から逃れた大海人皇子(後の天武天皇)の一族が桑名から海路、尾張に渡ったという説もあります。
航路は、外回りと内回りの二通りあり、満潮のときは陸地に近い内回りのルートを、干潮のときは陸地から遠い外回りのルートを使ったと記録されています。この近い方の内回りの航路(海上七里)の距離が七里でした。なお、かならずしも呼び名通り七里きっかりの距離ではなく「七里」は通称です。
天候や潮の状況にも左右されますが、順調にいって4時間から6時間ほどの船旅だったといわれています。これは、潮の干満によってコースが違うことと、風の状態に左右されたためです。干拓などで海岸線が変化するたびに七里の渡しの航路も変わり、現在に至っては、江戸時代の絵図からは想像できないほど埋め立てられています。
この航路で使われた船は、大名が乗る御座船と呼ばれる豪華なものから、一般庶民が乗る帆掛け船までいくつかのグレードがあり、船賃はそれぞれに設定されていました。正徳元年(1711年)5月の記録によれば、船賃は桑名まで、旅人1人45文、荷物1駄100文、馬1頭口取足付きで123文と決められていました。
七里の渡しは、東海道の重要な航路でしたが、悪天候のために渡航困難な場合、また船旅を好まない人、船旅に弱い人たちのために、脇街道としての佐屋街道を通るもう一つのルートが用意されていました。宮宿から陸路で佐屋宿へ歩き、そこから川舟で木曽川を3里下って桑名宿へ至るというルートです。こちらのルートは、婦人や子どもが多く通ったことから「姫街道」とも呼ばれました。 (「東海道唯一の海路「七里の渡し(宮の渡し)」(熱田区)」より)]
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