桑名宿
[『富田の焼き蛤』は伊勢参りの参拝客と江戸~京都間の東海道の旅人をひきつけた。伊勢神宮に行く伊勢参りの人々は、富田の立場で休憩して焼き蛤を食べるのを一生で一度の旅の楽しみにしていた。揖斐川・木曽川・長良川の木曽三川の河口では豊富な大河の恵みにより良質の蛤が育ち、伊勢湾を漁場とする近隣の富洲原地区の富田一色村の漁師から塩役運河で運搬されて富田に供給されていた。中世の富田城の領主、南部氏は伊勢神宮から、富田御厨(みくりや)と呼ばれていた。御厨とは神宮に捧げる食べ物の供給地のことで、富田一色の漁民は蛤などを伊勢神宮に供え物として捧げることにより伊勢湾の漁業権を得ていた。歌川広重は『東海道五十三次(狂歌入東海道)』に富田立場を描き、その浮世絵には『乗り合いのちいか雀のはなしには やき蛤も舌をかくせり』と詠まれた舌切り雀と貝の舌を結び付けた狂歌が記されている。十返舎一九が執筆した『東海道中膝栗毛』では、富田で登場人物の喜多八による騒動が起きている。『富田の立場にいたりけるに ここはことに焼はまぐりのめいぶつ、両側に富田の茶屋軒を 並べ往来を呼びたつる声にひかれて茶屋に立ち寄り』とあり、弥次郎兵衛と喜多八の旅人2人が富田の焼き蛤でめしの昼食を食べたのはいいが、熱い焼き蛤が喜多八のへその下に落ちてやけどするはめになり、『膏薬は まだ入れねども はまぐりの やけどにつけて よむたはれうた』という狂歌がラストシーンである。 (wikipedia・富田の焼き蛤より)]
『絵本駅路鈴』-桑名(拡大画像リンク)
『春興五十三駄之内』-桑名(拡大画像リンク)
[この版は狂歌を削除して出版されたもので、削除前の狂歌は
『臥(カ)龍亭梅道(江戸)
蛤の柱かそふる萬歳に/しつくり口もあはす才蔵
昔庵片儀
名物の時雨はまくり去年となりて/楼閣をふく春のうららか
松千代成
小袖さへ桑名のさとのをミならハ/はまくりつまにはるのぬひそめ』です。]
四日市宿
[追分とは道が二つに分かれるところで、日永の追分は、江戸と京を結ぶ東海道と伊勢に向かう伊勢街道との分岐点にあたります。日永の追分の鳥居は桑名の七里の渡しに建てられた一の鳥居に対して二の鳥居と呼ばれました。四日市を描いた浮世絵には、この鳥居を中心にした追分の風景が数多く描かれています。鳥居は、安永三年(1774)に一志郡須ヶ瀬村(現在の津市)出身の伊勢商人渡辺六兵衛が東海道を往来する人のために遥拝鳥居として建てさせたのが最初です。その後たびたび建替えが行われ、先代のものは昭和四十八年(1973)の伊勢神宮式年遷宮の際に、伊雑宮(いざわのみや)の鳥居を移建(昭和50年)したもので九代目にあたりますが、平成28年10月に同じく伊雑宮の鳥居を移建して建替えられました。当初は伊勢街道をまたぐように建てられていましたが、現在は伊勢街道が鳥居の横を迂回して、鳥居を くぐらずに進めるようになり、また、先の移建時に周りが公園化されました。
現在の追分には、常夜燈、道標、清めの手水所があります。常夜燈のひとつは奉献時から存在したと推定されます。道標は、明暦二年(1656)に建てられたものが、現在日永神社に移されています。それには「京」「山田」「南無阿弥陀仏 専心」「明暦二丙申三月吉日」とあり、現存する東海道の道標としてはもっとも古いもので、川原町の仏性院の開基専心によって建てられたことが知られています。
日永は、四日市宿と石薬師宿の間に立つことから間の宿とよばれ、周辺には多くの旅籠や茶店などが並んでいましたが、追分は日永の飛地で東海道中膝栗毛に登場する鍵屋をはじめとして浅草屋や野口屋等の旅籠や茶屋、綿屋という両替商もありました。 (「日永の追分 | 四日市市役所」より)]
『絵本駅路鈴』-四日市(拡大画像リンク)
『春興五十三駄之内』-四日市(拡大画像リンク)
[この版は狂歌を削除して出版されたもので、削除前の狂歌は『駄賃とる馬のはる日と伊勢ミちの/霞む長さハなんとしやうろく 明石浦人』です。]
石薬師宿
『絵本駅路鈴』-石薬師(拡大画像リンク)
[東海道の石薬師宿(現在の三重県鈴鹿市)の地名は、薬師如来像を本尊とする石薬師寺に由来する。旅人が手をかざして見るのは、街道の右手にある石薬師寺の山門ではなく、茶店の店頭に置かれた「うなぎ」の行灯看板。「牛若鞭桜」とあるのは、源頼朝の弟範頼が桜の鞭を地面に刺したところ芽吹いたという伝説の桜である。同じく頼朝の弟牛若丸(義経の幼名)と誤ってこのように呼ばれた。 (「作品解説-107番」より)
『春興五十三駄之内』-石薬師(拡大画像リンク)
[この版は狂歌を削除して出版されたもので、削除前の狂歌は『狐客三千里春寒石薬師 心中百端事遥?竹都祠 蜘手 青柳のいと永き日の旅なれハ/名所へハより古跡へハより』です。]
庄野宿
[近世の宿場の整備は徳川家康によって関ヶ原の合戦後に始められ、まず東海道、続いて中山道と順次進められていった。東海道では、1601年(慶長6年)に品川から大津までを53駅と定め、ここに東海道五十三次が始まった。しかし、全部が一度に設置されたわけではなく、順次整備されて最後に庄野宿が出来たのは、1624年(寛文元)だった。 (wikipedia・宿場より)]
[庄野宿西口(京口)跡西側汲川原町に、平野道道標がある、平野とは安楽川(鈴鹿川)対岸の鈴鹿市平野町のことで、この道が伊勢神宮への裏街道の一つではないかと想像しています。道標先の安楽寺川袂に「いぼとり地蔵」が祀られています。]
「今昔マップon the web 明治22年測図 明治26年発行地形図」(明治22年測図の汲川原から安楽川、鈴鹿川に下る道が平野道になります、鈴鹿川下に平野集落が描かれています。)
『絵本駅路鈴』-庄野(拡大画像リンク)
『春興五十三駄之内』-庄野(拡大画像リンク)
[記述されている狂歌は『くも駕籠をおろせは旅の鶯も/とまれかくまれ宿の梅かえ 東山堂数良』で、旅籠に入ってほっとしている女性の旅人の状況を表現しているようです。]
亀山宿
[また宿と宿の間に茶屋ができ、これを立場茶屋と言う(本来、立場とは人足が休憩する施設のことを指す。)が、立場茶屋と称して一般の旅人が休憩するようになった。茶屋は一般に入口が土間で、中央を境に左右二つ構えになっており、部屋には間仕切りをせずに隠れ場所とならないようにするのが規定であった。野尻村西端にも能古(のんこ)茶屋があり、元禄 3 年(1690)に禅僧の能古が開いたもので奈良風の茶飯や家伝の糀醤(こうじひしお)・煮豆などを大名や公家をはじめ、多くの一般の旅人等に供しており、東海道随一の立場と賞された。文化 3 年(1806)完成の『東海道分間延絵図』によると芭蕉がこの茶屋で「枯枝に鳥とまりたるや秋の暮」と詠んだとされる。 (「亀山市歴史的風致維持向上計画」より)]
『絵本駅路鈴』-亀山(拡大画像リンク)
『春興五十三駄之内』-亀山(拡大画像リンク)
[この版は狂歌を削除して出版されたもので、削除前の狂歌は『松竹に蓬莱山や石垣も/亀の背と見る城の初春 教訓亭文守』です。この絵の場所は亀山城南堀池袂の茶屋と思われます。]
関宿
『絵本駅路鈴』-関(拡大画像リンク)
[地蔵院-日本最古の地蔵菩薩を本尊とする地蔵院。寺伝によれば741年(天平13年)の開創。本堂、愛染堂、鐘楼が国の重要文化財に指定されている。「関地蔵院」とも呼ばれる。 (wikipdia・関宿より)]
『春興五十三駄之内』-関(拡大画像リンク)
[この版は狂歌を削除して出版されたもので、削除前の狂歌は
『千歳末長
春風のふくの神達ふたはしら/せきの霞にたたせたまへり
賓道堂仲成
初とりの音に関の戸も明てゆく/孟嘗?かくつかけのむら』です。]
[葛飾北斎による東海道五十三次の浮世絵を見ていると、関宿の浮世絵に大黒岩・夷岩なるものを見つけた。さて、これらの岩は何処にあるのだろうか。調べてみると、「西の追分」から東海道(国道一号)を西へ歩いた転石(ころびいし)付近の山にあるらしい。久し振りに観音山歩道を筆捨山まで歩くとともに、大黒岩・恵比寿岩(夷岩)を探してみることにした。詳細は→(「筆捨山・大黒岩・恵比寿岩 2021-12-23 – 鈴鹿山脈/登山日記」より)]
坂下宿
『絵本駅路鈴』-坂下(拡大画像リンク)
『春興五十三駄之内』-坂下(拡大画像リンク)
[この版は狂歌を削除して出版されたもので、削除前の狂歌は『初春に清きハ神の棚霞/上に見えたる若夷岩 元来酒持』です。]
[夷岩は「筆捨山・大黒岩・恵比寿岩 2021-12-23 – 鈴鹿山脈/登山日記」をご覧ください。]
土山宿
『絵本駅路鈴』-土山(拡大画像リンク)
『春興五十三駄之内』-土山(拡大画像リンク)
[この版は狂歌を削除して出版されたもので、削除前の狂歌は
『酒元成
枝たれて氷つきたる柳髪/とけて流るるはるの水くし
浦和哥女
春のよハかすミのうちにすきくしや/山の頭のミか月の蔭
琴羽有章
花の春都をさして旅人の/くしのはを引く土山の里』です。]
[お六櫛 – 昔、伊勢参宮帰りの木曽の旅人が土山で病にかかり、村人の手厚い看護で回復した。そのお礼に櫛の製造法を伝えに再度来たが、材料の木が無かったので木曽の櫛を送るからそれを売ればよいという話になったらしい。土産品として人気があったが、明治20年代にはほとんどの店がなくなった。 (wikipedia・土山宿#宿場の名物より)]
水口宿
[「弘法大師錫杖跡」から300m程先の交差点の手前に「夏見の里」の解説板が立っている。この辺りは、「立場」が置かれ、名物の心太(ところてん)や名酒桜川が茶碗酒として計り売りされている店が並んでいたそうです。 (「50 旧東海道 水口宿(みなくちしゅく)(関から京三条大橋)-4)」より)]
『絵本駅路鈴』-水口(拡大画像リンク)
『春興五十三駄之内』-水口(拡大画像リンク)
[この版は狂歌を削除して出版されたもので、削除前の狂歌は
『竹葉守数(上野桐生)
苗代の時にあふたるさくら川/ひつかけて行水口の酒
冨家朝起
春の旅酒も一口下戸なから/上ミへ登るハさて心ちよし』です。]
石部宿
『絵本駅路鈴』-石部(拡大画像リンク)
[平松のウツクシマツ自生地は東海道五十三次の水口宿と石部宿の中間、石部宿寄りの街道沿いにほど近く、東海道を往来する人々にも松の名所として古くより知られており、その優美な姿から「美松」「美し松」と呼ばれて大切にされ、1921年(大正10年)3月3日に国の天然記念物に指定された。 (wikipedia・平松のウツクシマツ自生地より)]
『春興五十三駄之内』-石部(拡大画像リンク)
[この版は狂歌を削除して出版されたもので、削除前の狂歌は『豊御代住(陸奥白川) 旅人のたもとをかこそひきとむれ/梅の木むらの梅のはつ花』です。]
[旧和中散本舗が所在する六地蔵は、東海道の草津宿と石部宿の中間に位置する間の宿(あいのしゅく)であった。当地には「和中散」という胃薬を販売する店舗が5軒存在したが、なかでも大角家は「和中散本舗」を名乗り、本陣を兼ね、『東海道名所図会』にも描かれた著名な店であった。大角家は系図によれば、慶長元年(1596年)、300メートルほど東北の旧地から現在地に移ってきたもので、屋号を「是斎屋」(ぜさいや)と称し、当主は代々弥右衛門を名乗った。慶長16年(1611年)、当地を訪れた徳川家康が腹痛を訴えたところ、典医が「和中散」を勧め、たちどころに快復したとの伝えがある。 (wikipedia・旧和中散本舗より)]