葛飾北斎-東海道五十三次(濱松宿-吉田宿)

濱松宿
『絵本駅路鈴』-濱松(拡大画像リンク)

『春興五十三駄之内』-濱松(拡大画像リンク)

東海道名所図会』-遠湖堀江村舘山寺(3巻―63)

[館山(たてやま)は、江戸時代後期まで周りを浜名湖の水面に囲まれていた島でした。現在では、埋め立てにより、庄内半島の基部とつながり、舘山寺温泉の一角として多くの観光客を集める湖岸きっての景勝地となっています。島であった館山が半島部と州によってつながり、往来できた状況が歌川広重の浮世絵によってうかがえます。館山は標高50メートル、周囲1400メートル、全山は珪岩によって形成されており、湖岸から見た秋の月は内浦の湖面に映え、また、松の影にかかり詩情豊か。このため、与謝野晶子北原白秋など数多くの文人墨客が訪れ、詩文を草し、歌を詠み、句をものにしています。館山とその周辺は秋月だけでなく、景勝の地が多く、江戸後期に著された『遠江古跡図絵』には「舘山八景」として紹介されています。また、『東海道名所図会』には「遠湖堀江村舘山寺」の図として館山を中心とした鳥瞰図が描かれており、山の頂に富士見岩が見られ、内浦を挟んで大草山が望まれます。  (「遠江八景 – 静岡県」より)]
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、『草紙亭上書此主 濵松のまつのよハひの千代かけて/なミも子の日のためしにそ引く』です。]

舞坂宿
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[南雁木跡(庶民渡船場・渡荷場)-今切の渡しは、新居宿の水夫360人、舟数120艘をもって行われ、一部が舞坂宿に常駐、渡船・輸送していた。しかし、大通行の際、今切渡船の常備船が新居宿だけでは足りず、文久3年(1863年)将軍上洛の時は大沢領では堀江村15艘・和田村5艘・白須村25艘・村櫛村40艘が出動している。天保期の渡船と船賃は、渡船が84艘あったが、大通行の際には漁船や周辺の村からの寄船で補った。天保15年(1844年)にて船賃は、人一人18文、荷物一駄53文、借切船417文となっていた。  (wikipedia・新居宿より)]

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[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、『柏葉亭栄 万歳のその舞坂を乗舟に/たてられたりや数の帆はしら』です。]

新居宿
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[近世関所には、「入鉄砲に出女」を改める意図のもとに設置された。新居関所の規定や検閲は、寛文7年(1667年)、『今切御関所改次第』の「女丼鉄砲を第一改可申侯」によると検閲を14条の大綱にて、番人の勤仕法や夜間通行・廻船の検閲などが示され、東海道の通行だけでなく、今切港の検閲もした。長持(近世の収納箱・木箱)も検閲の対象とし、関東方面への通過・関西方面への通過に対し婦女子・手負人・死骸等の手形を調査した。「入鉄砲出女」では、近世の関所に共通として女人の通過が検閲の対象であった。しかし武器・武具搬送の検閲については、無条件で通過が許可される関所もあったが、鉄砲証文で高札が掲げられていたのは新居関所だけであった。「入り鉄炮」の通関に老中証文が必要であった。東海道に設置された今切関所では、寛文7年5月の関所高札、正徳元年5月の高札で鉄炮を関所で改める方針が示され、江戸へ入る下りの鉄炮は老中証文が必要とした。しかし、江戸から出る鉄炮は改めなかった。  (wikipedia・新居関所#新居関所の検閲より)]

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[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、『春の旅霞む詠にくたひれす/舩さへ足のかるい海つら 深草菴早雄』です。]

白須賀宿
『絵本駅路鈴』-白須賀(拡大画像リンク)

[「道の駅潮見坂(しおみざか)」は静岡県の最西端の浜名湖西岸、湖西市白須賀にあります。潮見坂は東海道五十三次の白須賀宿にほど近く、京(都)から江戸(東京)に向かうときに、初めて太平洋が見られる場所で、この太平洋の大海原を見ると「江戸の町まであと半分」と言われていたそうです。昔の人たちはこの眺めを見て何を感じていたのでしょうか?  (「美味しい食事と無料足湯で疲れを癒やす「道の駅 潮見坂」」より)]

『春興五十三駄之内』-白須賀(拡大画像リンク)

[この宿駅の西方に猿馬場(さるがばば)という原山の地があり、そこの茶店で商った名物の柏餅(かしわもち)の製造を描いている。古く万治初期の作とみられる『東海道(とうかいどう)名所記(めいしょのき)』三に「猿が馬場、柏餅こゝの名物なり。あづきをつゝみし餅、うらおもて柏葉にて、つゝみたる物也」に見え、『東海道名所図会』巻之三にも「猿馬場の茶店に柏餅を名物とす」と記されている。当図初摺にある狂歌はこの柏餅にふれておらず、わずかに猿馬場の名を出す。「めもとにて春をしらすか腰ほその すかるをとめの前たれ柳 野草菴道人」「はる風かしらすかきねの梅かゝに うくひすならてとまる旅人 竹裡舘直根」「猿曳のさるかはんはに春立て 霞の網や梅の花笠 深草菴早雄」。付りになるが、京都の公家土御門泰邦が東下した折の紀行『東行話説』(宝暦10年正月)は道中名物を試食した作として知られるが、この柏餅はどうもこの人の口に合わなかったらしく酷評されている。  (「白須賀 | 味の素 食の文化センター」より)]

二川宿
[1601年(慶長6年)の東海道設定当初から、三河国渥美郡二川村と大岩村の2村で宿場として人馬継立業務を担当していた。しかし小さな村であり、また1.3kmほど離れていたため、しばらくすると負担に耐えられなくなった。江戸幕府は1644年(正保元年)に二川村を西に、大岩村を東に移動させ、二川宿と加宿大岩町として再構成させた。江戸の日本橋より西に72里3町 (単位)(約283km)に位置し、東の白須賀宿とは1里17町(約5.8km)、西の吉田宿とは1里20町(約6.1km)離れており、町並は12町16間(約1.3km)の長さがあった(二川宿は6町36間、大岩町は5町40間)。二川宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠が約30軒ほどあり大岩町は宿ではなく町であったため旅籠は設置されなかった。  (wikipedia・二川宿より)]
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[二川宿の地名は、梅田川と落合川の二川に因むもので、この二川の合流点が拠所となった。絵図の場所は梅田川に架かる筋替え橋と想像しています。]

『春興五十三駄之内』-二川(拡大画像リンク)

[二川宿立場茶屋-立場は人足が休憩したところです。二川宿西入口見付土居の東側にあり、茶店が軒を連ねていました。 (「周辺史跡案内 – 二川宿本陣資料館」より]
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、『三組初丸 玉くしけ今朝ふた川の明の春/柳のかもしばい花かほれる』です。]

吉田宿
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[街道は東から吉田城東惣門(豊橋市立八町小学校の南東あたり)の南を通過、吉田城の総堀に沿って続き、吉田城西惣門西側を北上し征夷大将軍の直轄の天下橋である吉田大橋(現在の豊橋(とよばし))(橋の南は渥美郡)で豊川を渡り下地(しもじ、当時は宝飯郡)とつながっていた。  (wikipedia・吉田宿より)]

『春興五十三駄之内』-吉田(拡大画像リンク)

[吉田宿の土産物として、火口(ほくち)、吉田煙草、良香散(りょうこうさん)という咳の薬があります。  (「東海道の名物‐食べ物と土産‐」より)]
[火口(ほくち)とは火打石を打って飛び散る火花を移しとる綿状のものである。ほくちは,アオイ科のイチビの殻幹を焼き,または茅花(つばな)やパンヤに焼酎・焔硝(えんしょう)を加えて製造するほか,木綿やガマの穂を原料につくる物もあった。延享3(1746)年の「東海道巡覧記」には「新町 東出はつれ見付外也,曲り角にほくちや嘉右衛門とて名物のほくち有」と記されており,道中記や旅人の記した旅日記,紀行文に,吉田名物としてほくちの名が見える。天保14(1843)年の「東海道宿村大概帳」にも「火口(ほくち)を商ふ家々多し」と記録されている。享和2(1802)年の吉田宿のほくち屋は6軒であった。  (「ほくち とは(豊橋百科事典より)」より)]
[豊橋における煙草製造業の起源は天明のころであった。江戸時代には、豊橋の煙草製造業は吉田煙草として有名で、吉田宿の東海道筋にあたる田町(たまち)・坂下町周辺には煙草製造業者が十数軒あったといわれる。吉田で煙草製造業が起こった一因としては、近隣の北設楽地方信州飯田地方が全国でも有数の葉煙草(はたばこ)生産地であり、しかも、これらの地方と吉田を結ぶ信州中馬(ちゅうま)や豊川舟運(しゅううん)による交通が発達していたことがあげられる。  (「とよはしの歴史 – ADEAC(アデアック):デジタル 」より)]
[JR小坂井駅から北へ 1.3 ㌔のところに、伊奈立場茶屋跡があります。立場とは、江戸時代に街道の宿場間に設けられた休憩所のことで、茶屋(茶などを提供する休息所)や売店が設けられていました。この付近は、江戸時代には吉田宿と御油宿の間の立場として栄えていました。伊奈の立場茶屋は、貞享4(1687)年に保科肥後守正容が将軍の名代として京都に行くときに建てられたのが始まりで、その後数軒の茶屋が設けられたといいます。この茶屋跡は最初の茶屋があった場所で、他の茶屋とは異なり、身分の高い人をもてなす格調高い茶屋であったそうです。寛延4(1751)年までには加藤家に引き継がれ、明治時代まで続きました。加藤家の茶屋では良香散(りょうこうさん)という咳の薬が販売され、旅人がこの茶屋町一帯を良香散と呼んだほど、街道筋ではよく知られていたようです。また、この茶屋跡には、松尾芭蕉の「かくさぬぞ 宿は菜汁に 唐(とう)が羅(ら)し」という句碑が建てられています。  (「伊奈町の立場茶屋跡 – 豊川市」より)]
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、
『柏古枝
年徳の神もあつまりますからに/よろつよし田の春そにきハう
免道茶筵
若みとりめしろと見へてよし田宿/風におしあふ青柳のゑた
千葉亭松景
招かれてはなのよし田のこのもとに/あかぬ酒宴も袖のふりあひ
垣元帶丸
二階から鹿子の袖にまねきなハ/来てハとまらん春の梅かか』です。]

  葛飾北斎-東海道五十三次(金谷宿-見附宿)   葛飾北斎-東海道五十三次(御油宿-宮宿)