金谷宿
[金谷宿は大井川の右岸(京都側)にあり、牧之原台地が迫る狭隘な場所であるが、増水で大井川の川越が禁止されると、江戸へ下る旅客が足止めされ、島田宿と同様、さながら江戸のような賑わいをみせた。 (wikipedia・金谷宿より)]
『絵本駅路鈴』-金谷(拡大画像リンク)
『春興五十三駄之内』-金谷(拡大画像リンク)
[当図ではこの宿(しゅく)の名物「飴の餅」を製する二名の女性を描く。軒先に懸けた、上方の文字を隠した看板がこの食物の由来を暗示する。すなわち「(小夜さよ)の中山 飴の餅」(括弧内は推測)と判読され、「小夜の中山」は、旧東海道の日坂(にっさか)峠から金谷に通じる坂道。ここで妊婦が賊に殺され、彼女の信仰する観世音が霊僧と化して胎児を助け、付近の女性に託して飴により養育。そしてこの子が成人後、仇賊を討する伝説。飴はやがて飴の餅となり、『改元紀行』にての名が見え、『膝栗毛』には「名におふあめのもちのめいぶつにて、しろきもちに水あめをくるみて」と製品の大体を示す。街道の名物で、『五海道細見独案内』東海道の部に「日坂嶺 さよの中山 名物あめのもち 茶屋女すゝめるなり」と載る。初摺品の狂歌もこの名物をふまえて「軒ちかく梅かかなやのあめのもち 鶯 はしをうこかす(「はし」は嘴はしと箸はしにかける)ナニ軒飛楽」と詠んでいる。 (「金 谷 | 味の素 食の文化センター」より)]
日坂宿
[現在の静岡県掛川市日坂に当たり、東海道の三大難所(峠)の一つとされる小夜の中山の西麓に位置する。宿場の西の入口には、事任八幡宮を擁する。古くは入坂、西坂、新坂など様々な字で記されており、大井川の畔の金谷宿と、塩の道と交差し城下町でもある掛川宿との間にあって、規模も小さかったが、江戸時代に入って正式に五十三次に加えられて整備され、字も日坂に統一された。 (wikipedia・日坂宿より)]
『絵本駅路鈴』-日坂(拡大画像リンク)
『春興五十三駄之内』-日坂(拡大画像リンク)
[身分制度の厳しかった江戸時代において、芸人は蔑まされる存在ではあったが、旅の制約のあった一般庶民と違い、旅芸人は関所手形を持っていなくても、芸を見せて芸人であることを証明できれば、関所を通過することができた。定住を基本とする共同体においては、旅芸人のような漂泊する者は異端であり、そうしたマレビトの来訪は、神であり乞食の来訪として、畏敬と侮蔑がない交ぜとなった感情を生じさせた。 (wikipedia・旅芸人より)]
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は『鳥か鳴あつまの春の明ほのに/かねも八声の日坂の里 松桜菴髙人』です。]
掛川宿
『絵本駅路鈴』-掛川(拡大画像リンク)
[横須賀凧奇想天外でユニークな形と色彩が特徴の「横須賀凧」は、戦国時代、敵の陣地の測量や通信手段などに利用されたのがその始まりといわれ、約500年ほどの伝統があります。
巴・とんがり・べっかこう・ぶか・奴など20種類以上もの形があります。 (「横須賀凧 – 掛川市」より)]
『春興五十三駄之内』-掛川(拡大画像リンク)
[掛川手織葛布-葛布とその里掛川のあゆみ
当地に葛布の製法が生まれたのは、その昔、掛川西方の山中にある滝の側で庵を結んでいた行者が、滝水に打たれ、さらされている葛蔓を見つけ、それが繊維として使用できると考えて、信徒の老婆に葛の繊維を採る方法を教え与えたことからと言い伝えられております。
歴史的に認識されて来たのは鎌倉時代からで、当時は、蹴鞠(ケマリ)の奴袴(サシキヌ)に用いられ、江戸時代に入り東海道の掛川宿の繁栄と共に葛布も栄え、広く世間に知られ裃地(カミシモジ)、乗馬袴地、合羽地などに使用され、また参勤交代の諸大名の御土産品としても大変珍重されておりました。 ところが、明治維新による武家階級の転落、生活様式の急転により壊滅的打撃を受け問屋は大半が転業しました。
明治の初期、襖の引き手の葛布にヒントを得て、従来の着尺巾を三尺巾に織り、東京に出し大好評を得て以来、襖地として生産される事となり、また明治30年頃より壁紙としてアメリカへ輸出したところ大変評判が良くGrassClothの名で、最高級の壁紙として喜ばれました。
戦後になるとコストの安い韓国産が出回り再び大打撃を受け、現在は織元も二軒になりましたが、伝統を守った葛布の持つ美しさと素朴な味わいは、今でも内外を問わず多くの人々に親しまれ、愛用されております。 (「掛川葛布の歴史」より)]
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は『浅葉庵音芳 青柳をたてぬきにしてあつらへん/こさめ見事に造る掛川』です。]
袋井宿
『絵本駅路鈴』-袋井(拡大画像リンク)
『春興五十三駄之内』-袋井(拡大画像リンク)
[西宮の恵比寿信仰を広めたのは、「戎廻し」とか「戎かき」と呼ばれる愧儡(くぐつ)舞の芸人たちである。かれらは各地を巡って、人形を面白おかしく舞わせて、恵比寿の神である蛭子命の御利益を説いた。恵比寿廻しの活躍は、鎌倉時代末から室町時代にかけての時期に盛んであったが、この期間は伊勢神宮の御師によって、天照大神信仰が各地に広められた時期に相当する。そのために恵比寿廻しの人びとは、蛭子命が天照大神の近い親族であることを強調した。そして天照大神は日本全体を治める国の守り神であるが、恵比寿様の神(遠くから来た神)ある蛭子命は一人一人の信者の願いを叶える身近な神だと説いた。
恵比寿廻しの実像を伝える記録は、ほとんど残っていない。しかし恵比寿廻しを行なった愧儡師は、ただの旅芸人ではなく西宮神社の下級の神職であったとする確かな文献はある。そこには愧儡師は神社の社人として西宮神社の北隣りに居住しており、百太夫という者を始祖としていたとある。恵比寿廻しの芸人は、都市や農村で芸を演じ、見物人の支払う報酬で生活していたとみられる。かれらは質の高い芸を見せ、各地を廻って芝居や話芸を演じる他の旅芸人と変わらない生活をしていた。
現在の西宮神社の境内には、人形操りの祖神としての百太夫神がみられる。江戸時代になって歌舞伎、文楽その他の芸能が発展していく中で、恵比寿廻しの芸は流行遅れのものとなって廃れていった。 (「恵比寿の意味や由来 – 日本の行事」より)]
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、
『酒上長房
大黒の袋のうちもはる駒に/よろつの宝つけてきのえ子
春駒成
くれなゐの霞の色の匂へるハ/たか汲とその袋井の里
反甫奴加留
千金の春を納めてきのえ子ハ/大黒天の智慧の袋井』です。]
見附宿
[もともとは10世紀に遠江国の国府が置かれた土地であるが、鎌倉期には国衙と守護所が置かれ、中世の東海道屈指の規模を持つ宿場町となった。16世紀頃には町人による自治も行われていたが、藩政期に入ると自治権は失われ、単なる宿場町の1つとなっていった。
天竜川の左岸にあたるが、大井川と違って水深があったため主に船が使われており、大井川ほどの難所ではなかった。しかし川止めのときは島田宿などと同様に、足止めされた人々で賑わったとされる。また遠江国分寺や見附天神の門前町であり、本坂通の分岐点でもあった。 (wikipedia・見附宿より)]
『絵本駅路鈴』-金谷(拡大画像リンク)
『春興五十三駄之内』-見附(拡大画像リンク)
[旅人たちが茶店で蕎麦をすする状景。見附の蕎麦については、古く『東海道名所記(めいしょのき)』三に「坂の上に饂飩(うどん).、蕎麦切りをうる店屋あり」とか、『東海道袖の玉鉾』に「此宿の坂下にそば切りあり」など見え、知られていたらしい。店先の看板に大書した文字は「拔きそば」と読め、上部を略しているが、おそらく「挽拔(ひきぬき)そば」であろう。「挽拔」は夾雑物のない精製した上等の白いそば粉、その粉で製造した蕎麦であろう。左脇に「壱膳一六文」と値段を記す。初摺作品にある狂歌は、ただし蕎麦は詠みこまず、単に初春を祝している。「旅人の足の豆をやあさるらん 見附に鳩の春の賑ひ 三ヶ月弓」「初春の旅鴬よとまれかし 梅を見附の宿と尋て 杜若菴橋蜘手」。 (「見 附 | 味の素 食の文化センター」より)]