[葛飾北斎は、その生涯に、確認されているだけでも東海道のシリーズの浮世絵版画を7種類手がけている。この展示の版図はその中の最も大きなサイズのもの。文化7年(1810)、北斎が50歳の時刊行されたものと思われ、版元については「掛川」「見附」などの画中に伊勢屋利兵衛の商標があることから伊勢屋版とされている。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の主人公である弥次郎兵衛、喜多八のような二人の旅人が描かれていたり、宿駅や旅人の風俗を中心に描かれている。 (「東海道五十三次 絵本駅路鈴 文化遺産オンライン」より)]
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『春興五十三駄之内』は『展示資料解説 | 藤沢市藤澤浮世絵館』、ボストン美術館及びフランス国立図書館から画像ダウンロードしました。
日本橋
『絵本駅路鈴』日本橋(拡大画像リンク)
[葛飾北斎は『冨嶽三十六景』で『江戸日本橋』を描いています。]
『春興五十三駄之内』-日本橋(柳川重信作)
[葛飾北斎(1760~1849)は、歌川広重(1797~1858)よりも早く東海道五十三次を題材にした作品群を、享和~文化年間(1801~1817)に7種類を制作したことが知られている(永田生慈『葛飾北斎 東海道五十三次』岩崎美術出版社、1994年)。制作年が判明しているのは2種類(享和4年・1804と文化7年・1810)あり、本作は享和4年に制作されたものである。サイズはほとんどが小判(大判の4分の1)であるが、日本橋、原、鞠子、藤枝、秋葉山之春□、鳳来寺春景、岡崎、桑名は小判を横に並べたサイズで制作されている。他にも宿場ではない図(秋葉山之春□、鳳来寺春景、岡崎池鮒鯉之間)がある点や、品川と岡崎だけが2図(宿場間を含めれば岡崎は3図)ある点、狂歌が添えられる点なども特徴といえる。それぞれの図では街道の風俗や名物などが描かれており、これは北斎の東海道五十三次作品群に共通する特徴である。後に小判横並びサイズの図を柳川重信が小判1枚に描きなおし、狂歌を削除して出版された。 (「春興五十三駄之内」より)]
品川宿
『絵本駅路鈴』品川宿(拡大画像リンク)
[立場茶屋釜屋跡。立場茶屋は一般的に旅籠より安価であったため、繁盛したといわれ、殊に釜屋は本陣同様の門構えをし、連日江戸幕府関係者が宿泊したという。明治元年(1868年)1月には、鳥羽・伏見の戦いから関東に引き上げてきた土方歳三を始めとする新選組隊士も一時釜屋に投宿した。 (「幕末関連史跡補完計画:史跡便覧:東京都品川区」より)]
『春興五十三駄之内』-品川(拡大画像リンク)
[当「品川」は3人の女性が、品川から大森へかけての名産「浅草海苔のり」を漉すいて製造する所を描く。『東海道名所図絵』巻六に「海より取得し海苔を磯辺いそべにて汰ゆり、塵をより包丁にてよく敲たたき、それより簀すへ薄く漉すき流し干乾ほしかはかすなり 世人品川海苔といはずして浅草といふは、むかし浅草にても取しにや」とある。当図の初摺の狂歌は「品川や 背なは荒小田 妹は海苔 打かへしたる 春のすきそめ 浅瀬庵永喜」。 (「品 川 | 味の素 食の文化センター」より]
川崎宿
『絵本駅路鈴』川崎宿(拡大画像リンク)
[六郷の渡し(川崎側)-六郷は東海道が多摩川を横切る要地で、慶長5年(1600年)に徳川家康が六郷大橋を架けさせた。慶長18年(1613年)、寛永20年(1643年)、寛文2年(1662年)、天和元年(1681年)、貞享元年(1684年)に架け直され、貞享元年のものが江戸時代最後の橋になった。1688年(貞享5年)の洪水以後、橋は再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられた。 (wikipedia・六郷橋より)]
『春興五十三駄之内』-川崎(拡大画像リンク)
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、
『釋種奈志(武蔵川崎連頭)
てつくりやさらす垣根に引つつく/霞の布も春の長尺
中野吉人(武蔵川崎曲水連)
玉川や流るる波の玉ことに/くミ心よき春の若水
音松亭守豊
流してハまた巻もとしくり返し/柳の糸もさらす玉川』です。 (以下削除前の狂歌紹介は「和泉市久保惣記念美術館 – 春興五十三駄之内」による。)
神奈川宿
『絵本駅路鈴』神奈川宿(拡大画像リンク)
[田中家 – 1863年(文久三年)創業の料亭。広重の絵に描写されている「さくらや」という茶屋の跡にできたといわれる。坂本龍馬の妻楢崎龍が仲居として働いていた記録があり、写真等が現存する。 (wikipedia・神奈川宿より)]
『春興五十三駄之内』-神奈川(拡大画像リンク)
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、
『笹林堂茂(蔵神奈川浅草側連頭)
見渡せは遠く杉田の梅見舟/霞かそてのうらをこきゆく
旅 亀丸
春きぬる霞の袖がうらもよふ/そこいたりなるもすそ引網
柳原亭重丸
帆はしらをねかせし舩の春霞/かかりし沖ハ神奈川湊』です。]
保土ヶ谷宿
『絵本駅路鈴』保土ヶ谷宿(拡大画像リンク)
旧帷子橋跡-『昭和39年(1964)7月に、帷子川の流れがそれまでの相模鉄道天王町駅南側から、北側に付け替えられたのに伴い、帷子橋の位置も変わりました。かつての帷子橋の跡地は現在の天王町駅前公園の一部にあたります。 横浜市教育委員会』
『春興五十三駄之内』-保土ヶ谷(拡大画像リンク)
[北斎が描いた東海道五十三次シリーズは大判は無く、大半は小判横です。景観描写をテーマにした初代歌川広重の作品に対し、旅姿や各宿駅の風俗がテーマとなっていて、独特の味わいを感じさせます。出版当初は狂歌グループからの依頼で「春興五十三駄之内」(しゅんこうごじゅうさんえきのうち)と題した摺物(すりもの)で、右側に狂歌(きょうか)が刷られていました。各宿の内容を見ると、「程ヶ谷」(ほどがや)では農耕馬の足を洗う人の姿に春の訪れが感じられます。 (「展示資料解説 | 藤沢市藤澤浮世絵館」より)]
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、『春風亭梅守 かんはしき梅か香もよき程ヶ谷ハ/焼もち坂の春の明ほの』です。]
戸塚宿
『絵本駅路鈴』戸塚宿(拡大画像リンク)
[吉田橋-この地点は東海道と、柏尾川沿いに大船を経て鎌倉へ抜ける鎌倉道との分岐点であり、多くの人々で賑わったことがうかがわれる。]
『春興五十三駄之内』-戸塚(拡大画像リンク)
[「戸塚」(とつか)では宿の女性に別れを惜しまれながら旅立つ二人連れ。 (「展示資料解説 | 藤沢市藤澤浮世絵館」より)]
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、『弄月菴只丸(江戸) 行としハ里のおしやれもとめかねて/とつかハ春の東路を来る』です。]
藤澤宿
『絵本駅路鈴』藤澤宿(拡大画像リンク)
[江の島弁財天道標-遊行通り先のロータリーの中には市指定文化財の江の島弁財天道標がたっています。この道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術の考案者で、江の島弁財天を厚く信仰していたといわれる杉山検校が、江島神社に参詣する人々が道に迷うことのないようにと寄進したものと伝えられ、この他に市内にほぼ同形の道標が12基指定されています。 (「02-江の島弁財天道標 | ふじさわ宿交流館」より)]
『春興五十三駄之内』-藤沢(拡大画像リンク)
[「藤沢」では江の島一ノ鳥居(えのしまいちのとりい)をくぐって江の島へ向かう旅の女性たちが描かれています。先頭の女性の煙管(きせる)(訳注:パイプ)に付けられた赤い布は疱瘡除け(ほうそうよけ)(訳注:天然痘)のまじないです。道標(どうひょう)には「ここよりゑのしま道」(これよりえのしまみち)と書かれていますが、この道標に記された「享和四年(1804年)」(きょうわよねん)の文字から、このシリーズの制作年代が判ります。 (「展示資料解説 | 藤沢市藤澤浮世絵館」より)]]
平塚宿
『絵本駅路鈴』平塚宿(拡大画像リンク)
[田村通り大山道-大山道の中で最も主要とされ、起点の藤沢四ツ谷に置かれた石造の「一の鳥居」は、万治4年に木造で設置された後、昭和35年に大改修され、鳥居の正面に天狗の面がかけられた。「御花講大山道」や「御花講道」とも呼ばれ、東海道と藤沢宿で接続し、藤沢宿を挟み対面の江の島道にも通じるため、最もにぎわいをみせた経路である。 (wikipedia・大山道より)]
『春興五十三駄之内』-平塚(拡大画像リンク)
[「平塚」は、木陰で休む農夫たちと草刈りのカマや籠(かご)が描かれています。春先でまだ寒そうな風情です。 (「展示資料解説 | 藤沢市藤澤浮世絵館」より)]]
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、
『ふミ出す春の日あしの平塚を/旅のあんまになてさする也
高砂亭
旅人も雲井をさしていかのほり/霞の糸をはるのひら塚
杜若菴(江戸)』です。]
大磯宿
『絵本駅路鈴』大磯宿(拡大画像リンク)
[延台寺-各地には虎御前の伝承と結び付けられた虎が石が存在する。大磯町の延台寺に伝わる虎が石は、子宝祈願のため虎池弁財天を拝んだ山下長者の妻に与えられ、やがて夫妻は虎御前を授かった。虎の成長とともにこの石も成長し、祐成を賊の矢から防いだことで身代わり石とも呼ばれる。 (wikipedia・虎御前より)]
『春興五十三駄之内』-大磯(拡大画像リンク)
[「大磯」は大きな石を持ち上げようとしている人がいます。石には「虎か石」(とらがいし)と書かれていて、同宿の伝説の虎御前(とらごぜん)(訳注:曽我物語(そがものがたり)に出てくる女性、曽我物語を全国にひろめたと言われている)に基づいた画であることが分かります。 (「展示資料解説 | 藤沢市藤澤浮世絵館」より)]
[狂歌は、
『一粒亭萬盃
石の名のとらにハ起んうくひすの/ねにハふすへき人もあらしな
浅流菴清志(補助)
大磯や鴫立沢のさハさハと/竹の葉音も軒の春風』です。]
小田原宿
『絵本駅路鈴』小田原宿(拡大画像リンク)
[酒匂川の渡しの碑-酒匂川の渡しは,東海道五十三次道中の難所の一つで,古くは船渡しが行われていたが,延宝二年(1674)船渡しが禁止され徒渉(かちわたり)制が施行され,冬の時期を冬川と言い仮橋を架けて往来したが,夏の時期は夏川と称し橋を架けないので必ず手引・肩車・輦台(れんだい)など有料で川越人足の力を借りて渡らなければならなかった。この制度は明治四年(1871)に廃止された。 (「酒匂川の渡し 碑」より)]
『春興五十三駄之内』-小田原(拡大画像リンク)
[「小田原」は「ういろう」売りと遠景に小田原城。
「ういろう(外郎)」とは小田原名物の薬の名で、現在でも販売されています。(同名のお菓子もあります)歌舞伎役者の二代目の市川団十郎が咳と痰の病で台詞(せりふ)をうまく言えずに困っていたときに、外郎を服用して治り、自作自演の『外郎売』(ういろううり)を舞台で演じたことは、この絵の描かれた当時から有名でした。画の女性は団十郎の真似をしているようです。 (「展示資料解説 | 藤沢市藤澤浮世絵館」より)]
[狂歌は、
『浅波菴河鳥
鶯の舌のまハるハ小田原の/ういろうほとの梅の功能
山草庵花八重咲
春ハきのういろう賣のせりふほと/雲雀のこらの上る小田原』です。]
箱根宿
『絵本駅路鈴』箱根宿(拡大画像リンク)
[箱根 札辻–箱根の関所を通過し、箱根峠越えを目指す旅人]
『春興五十三駄之内』-箱根(拡大画像リンク)
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、『手遊ひの湯もと細工の春霞/こすひに紅をいく筋も引 浅子亭市成』です。]
三嶋宿
『絵本駅路鈴』三嶋宿(拡大画像リンク)
[三嶋大社-箱根峠より西側の最初の宿場町であると同時に三嶋大社の門前町として栄えた宿場です。一つ手前の箱根の山を越えた客がここで英気を養っていました。]
『春興五十三駄之内』-三嶋(拡大画像リンク)
[狂歌は、
『釋子凹
紫のふくさに霞なひく也/里も茶碗の名なるミしま手
丸散法師
打むれてミしまの野辺にミ子もつむ/神をいさめのすすなたんほほ』です。]