沼津宿
『絵本駅路鈴』-沼津(拡大画像リンク)
『春興五十三駄之内』-沼津(拡大画像リンク)
[江戸時代、幕府は村々に年貢や助郷などの課役を命じましたが、このほかに道路や橋、用水などの修繕も村の負担になり、村内の道路の補修などは「自普請」といって村の費用で行われましたが、主要道路については、宿内の家並み続きの場所以外は、周辺の村々が掃除や普請の義務を負わされました。
五街道のうち、とくに東海道は公用人馬の往来が激しく、道路や橋の普請は、幕府の御普請役が管理し、宿村がこれを手伝うことになっていました。
街道の掃除は沿道の村々の負担で行われていました。村々には、掃除受取丁場といって一定の持ち場が割り当てられ、御三家、参勤交代の大名、諸門跡、勅使、上司、名代、お茶壺道中などの通行の際は、必ず掃除を行わなければなりませんでした。
掃除の内容は、道の両側に鍬目をつけ、水たまりを土で埋め、落ち葉や馬糞を取り除き、ところどころへ盛砂や手桶を用意するというものです。 (「街道の整備や清掃はどうやっていたのですか?」より)]
[狂歌は、『関屋里元 冨士うつる沼津にはるハつむ芹の/其ねも雪の白き生ひ』です。]
原宿
『絵本駅路鈴』-原(拡大画像リンク)
[李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団(朝鮮通信使)の原宿付近通過の画です。]
『春興五十三駄之内』-原(拡大画像リンク)
[『宿村大概帳』に「この宿より吉原宿までの間往還通並木」とある。原宿から植田新田までの往還左には延べ369間、同右に1603間松並木が存在するということになる(「原宿 – 沼津市」より)。この絵図は植田新田の辺りと思われます。]
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、
『山も今朝霞のにしき着かさりて/位高く見ゆる不二の明ほの
松元亭繁樹
おもしろき頂上なれや鶯の/声も不尽ほと高くのほりて
末廣菴』です。]
吉原宿
[「神田には江戸時代から変わらぬ製法で造られている発酵食品がある。甘酒、納豆、味噌、そして白酒。
発酵食品を造り続けてきた3人が語る。」より抜粋。
『皆さんがお造りになっている発酵食品は、江戸時代からほとんど製法が変わっていないと聞きました。
白酒に関してはまったく同じですね。最後のすりつぶす工程もいまだに石臼でやっている。だから非常にきめが細かいんです。昔は手で石臼を回していたものが電動になったくらいで、造り方はまるっきり同じ。一度、石臼でなく攪拌機のようなものでやってみたことがあるんですが、ざらついてちょっと時間が経つとすぐ沈降する。粒子がだいぶ違うんでしょうね。ですから効率は悪いんですけど、昔の味を出そうということで、まだ石臼でやっています。』 (「KANDAアーカイブ:神田資料室」より)]
『絵本駅路鈴』-吉原(拡大画像リンク)
『春興五十三駄之内』-吉原(拡大画像リンク)
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、『浅緑菴春告 白酒をひさくわたりハ春めきて/霞か引けハうたふ鶯』です。]
蒲原宿
『絵本駅路鈴』-蒲原(拡大画像リンク)
[富士川から大井川にかけて静岡県中部の駿河湾沿岸では、昔から漁業のかたわら塩づくりが行われていました。明治二十七年の『静岡県水産誌には』には「製塩業は蒲原地方においては砂浜広闊(こうかつ)なれば従って塩畑多く産出多額である』とあり、大井川町吉永地区で塩造づりが盛んであったことがうかがえます。 (「塩づくりは次第に定着し ました。 – 「吉永塩」の発祥」より)]
『春興五十三駄之内』-蒲原(拡大画像リンク)
[蒲原海岸での地引網漁]
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、『浅呂菴牧廣 春風も定りかねつうらさむミ/地引にまちるこちや北鰒』です。]
由井宿
『絵本駅路鈴』-蒲原(拡大画像リンク)
[江戸時代には、現在の韓国ソウルから日本に12回にわたって使節団がやって来ました。この使節団を総称して、朝鮮通信使といいます。この朝鮮通信使の「通信」とは「信(よしみ)」をかわすという意味で、友好親善の使者ということができます。
一行は、浜松、掛川、藤枝、江尻(清水)、三島などの東海道の宿場に宿泊しており、富士山の美しさに感嘆して詩を残すなど、静岡県に大変ゆかりがあります。特に、慶長12年(1607年)の第1回使節は、折戸湾を船で遊覧し、駿府(静岡)で大御所・徳川家康に接見しています。
当時最高の知識人である朝鮮通信使による揮毫(書画をかくこと)は人気があり、県内には彼らが揮毫した数多くの扁額が残されています。 (「朝鮮通信使揮毫扁額数 – 静岡県」より)]
『春興五十三駄之内』-由井(拡大画像リンク)
[海浜の塩田で製塩作業のところ。いわゆる、揚浜式製塩法と見られ、砂粒に付着する塩を木のすきで掻き、塩水を注ぎ濃厚化し、右手前の塩屋で焼く。『五海道中細見』(以下『細見』と略称)の東海道の部で、「由井」の蒲原方面へ出外はずれた海浜の所に「此へん塩やき出す所なり」と見える。当図の初摺品も「しほ焼もしらぬけふりの見ゆる也 由井のはま辺にたつ春霞 金剛舎砂守」と塩焼の狂歌を記している。 (「由 井 | 味の素 食の文化センター」より)]