興津宿
『絵本駅路鈴』-興津(拡大画像リンク)
[興津(おきつ)は、静岡県静岡市清水区の地名。この辺りの海辺は、古くから清見潟と呼ばれ、歌枕として名を馳せた。古代での呼び名は奥津 (おくつ) 、息津(おきつ)、沖津 (おきつ) ともいわれている。江戸時代には興津宿として東海道五十三次の17番目の宿場町として発展した。 (wikipedia・興津より)]
『春興五十三駄之内』-興津(拡大画像リンク)
[駅名の表記は、現行は興津。江戸時代では奥、興両様に用いている。図は土地の名物、海産品の主だったものを描く。すなわち薩埵(さった)峠東麓の倉沢(くらさわ)で著名な「名産栄螺(さざい)鮑(あわび)、薩埵山東の麗、西倉沢茶店(さてん)に栄螺鮑を料理て価(あきなふ)なり」と『東海道名所図会』巻(4巻-コマ番号64) に記すサザエとアワビを盛る。取り合わせたタイは、異名を興津鯛と名付けられたアマダイ(甘鯛)と見られる。『本朝食鑑』8に「江都盛賞レ之名曰甘鯛或日二奥津鯛一是駿之奥津多産也」といい、又随筆『甲子(かっし)夜話』5にも「或人より聞く、駿海産の甘鯛を生干にしたるをオキツ鯛と称して名産の一なり」と記され、相当に前から世に知られている。初摺品にある狂歌は「はるの海たひら魚釣あまをふね ゑにかけること奥津しま山 万歳亭」と海産物一般を詠じている。 (「奥 津 | 味の素 食の文化センター」より)]
江尻宿
『絵本駅路鈴』-江尻(拡大画像リンク)
[稚児橋の由来
慶長12年(西暦1807年)徳川家康 の命により、東海道五十三次 沿いの巴川に橋が架けられ、江尻の宿にちなんで江尻橋と命名されることとなり、渡り初めの日とはなった。さて儀式に先がけて、かねて選ばれていた老夫婦がまさに橋に足をかけようとした瞬間、川の中から一人の童子が現れたとみるやするすると橋脚を昇り忽然と入江方面へ消えさった。渡り初めに集まっていた人たちは、あまりに突然のこととてあっけにとられたが、このことから橋名を江尻橋から童子変じて稚児橋と名付けたといわれている。なおその不思議な童子は巴川に住む河童だったとも語り継がれている。
清水の名物、いちろんさんのでっころぼう人形の中に河童 がいるのは、この伝説による。 (「稚児橋の由来 – Monumento(モニュメント)」より)]
『春興五十三駄之内』-江尻(拡大画像リンク)
[雨中の旅姿の画です。江戸時代の道中には笠(かさ)・合羽(カッパ)は必需品で、合羽はポルトガル語の「capa」の音写語である(ただし、ポルトガル語のcapaは雨衣だけでなく本のカバーやCDケース、ソファに掛ける布など中身を保護するための覆いを意味している)。本来は外来語だが、新聞等では国語化しているものとして扱われ、通常は片仮名ではなく平仮名で「かっぱ」と書かれる。16世紀に来日したキリスト教の宣教師が着ていた外衣が元であり、合羽の他に勝羽とも書かれ、南蛮蓑とも呼ばれた。合羽は当初は羅紗を材料とし、見た目が豪華なため、織田信長や豊臣秀吉などの武士階級に珍重された。江戸時代に入ると、富裕な商人や医者が贅を競ったため、幕府がこれを禁止し、桐油を塗布した和紙製の物へと替わっていった。合羽は安価で軽量で便利なため、瞬く間に普及し、寛保年間には小さく畳んで懐に入れられる懐中合羽が発明され、旅行の際の必需品として使用された。合羽の原料となる桐油紙は、合羽だけでなく、荷物や駕籠の被いや出産の際の敷物(お産合羽)としても使用された。 (wikipedia・合羽より)]
[狂歌削除後の版で、削除前の狂歌は、
『要石亭堅人
雲井まて霞そハたるささかにの/江尻に糸や引そめぬらん
杜若菴
しゆく入の奴江尻をふり出す/柳の毛やり春雨の夜』です。]
府中宿
『絵本駅路鈴』-府中(拡大画像リンク)
[徳川家康の鷹匠である鷹匠組頭、伊部勘右衛門なる者が自身の辞職を理由に遊郭の設置を願い出ると、大御所家康は事の次第を察してか、その願いを聞き入れた。勘右衛門は現在の安倍川近くに1万坪の土地を自費で購入し、故郷である山城国(京都府)伏見から業者や人を集め、自身も「伏見屋」という店を構えた。これが幕府公認の遊郭の始まりである。
後に、町の一部を江戸の吉原遊廓に移したので、残った町がいわゆる「二丁町」と呼ばれ、全国に知られた静岡の歓楽街になったのである。駿府城下には町が96か町あり、その内7か町が遊廓であった。その内の5か町分が江戸へ移り、残った2か町が二丁町の由来ともいわれる。『東海道中膝栗毛』にも登場する。 (wikipedia・二丁町遊郭より)]
『春興五十三駄之内』-府中(拡大画像リンク)
[駿河竹千筋細工
静岡近辺で良質の淡竹(はちく)が産出され、これを使って各種の竹細工が古くから作られ「駿河竹細工」と称されていました。
寛永年間〈1624~1644〉、江戸において籐編笠が流行しましたが、高価で一般向きでなかったため、その代用として駿府草深の同心たちが研究し、竹ひごの笠を作ったといいます。これは値段も安価でしかも武士の好みに合ったため、江戸で飛ぶように売れ、また旅人からも重宝がられ、駿府の特産品として知られるようになりました。
しかし、卖なる竹細工から今日のような精巧なものになったのは、天保 11 年(1840)に菅沼一我によって伝えられてからです。 (「駿河竹千筋細工 静岡近辺で良質の淡竹(はちく)が産出され」より)]
[狂歌-鶯のうまるる竹の細工もの/ねのはるとても春の旅つと 浅春庵安良]
鞠子宿
[麦とろ(むぎとろ)は麦飯にとろろ汁(すりおろした自然薯をのばしたもの)をかけて食べる料理。米飯にかけて食べる場合はとろろ飯(とろろめし、とろろまま)やとろろかけ飯という。
皮をむいた自然薯を直接すり鉢で卸していくと、滑らかなとろろができる。卸金で卸したものをすり鉢に入れ、すりこぎであたって作ると、早くて楽だが、舌触りは劣る。天然の山芋はそのままでは飯にかけて食べられないほど粘りがあるので、これを出汁でのばし、酒、みりん、醤油、白味噌、卵などを加えて汁にし、麦飯にかけて食べる。葱、青海苔などを付け加えることもある。 (wikipedia・麦とろより)]
[鞠子宿の名物はとろろ汁である。歌川広重の東海道五十三次にも描かれ、松尾芭蕉も「梅若葉丸子の宿のとろろ汁」という句を詠んでいる(「猿蓑」)ほか、十返舎一九は『東海道中膝栗毛』の丸子のシーンでとろろ汁を作中に取り入れている。 (wikipedia・鞠子宿より)]
『絵本駅路鈴』-鞠子(拡大画像リンク)
『春興五十三駄之内』-鞠子(拡大画像リンク)
[狂歌削除後の版で、削除前狂歌は、
『三味角製
染糸のちとりとや見ん手あそひの/まりこの里にかかる霞を
宝舛子
旅人をまねく手しなのしなひよく/つくハまりこの里のをミなら
梅堂
うまや路のをなも霞の袖ひかん/とまりころよき春のたそかれ
三輪里人
日の影にあたたまりこのさと人ハ/春のねふけもとろとろろ汁
浅茅庵守舎
鶯のすり餌の鉢やとろろ汁/おなし色なる若菜青のり』です。]
岡部宿
[丸子宿から続く東海道21番目の宿場町、岡部宿。小規模な宿場ではあったものの、難所といわれた宇津ノ谷峠を無事に越えた旅人達の安息の地となっていました。 (「岡部宿オカベシュク – ふじえだ東海道まちあるき」より)]
『絵本駅路鈴』-岡部(拡大画像リンク)
『春興五十三駄之内』-岡部(拡大画像リンク)
[狂歌は、
『白鷺池住(上野千載連)
旅人の休む岡部に若あしも/ふみのはしたる春のうららか
夏山青喜(上野千載連)
ききなれし耳にもけさハめつらしや/琴のをかへの松の春風
四辻門守(上野千載連)
あそひめと岡部の柳色そひて/旅ゆく人をとめんとすらん』です。]
藤枝宿
『絵本駅路鈴』-藤枝(拡大画像リンク)
『春興五十三駄之内』-藤枝(柳川重信画・拡大画像リンク)
瀬戸の染飯
[東海道を藤枝宿から島田宿へ行く途中にある瀬戸村(現在の静岡県藤枝市)では、名物の染飯(そめいい・瀬戸の染飯)が売られていた。染飯とはクチナシで黄色に染めた強飯で、これをすり潰して小判形などに薄く延ばして乾燥したものが街道の茶店で売られていた。クチナシは漢方薬として解熱・止血・鎮痛・利尿・消炎などの効果があり、また見た目の鮮やかさから旅人に重宝された。
図は、「藤枝本町瀬戸染飯」と書かれた看板を掛けた店頭で、美しい女性二人が台の上に載った丸型の染飯を売る様子が描かれる。その横にはクチナシの赤い実が見える。 座敷の竈には蒸籠を乗せた釡があるが、客が買った染飯をその都度蒸し返して柏の葉に包んで提供したと言われている。この地を訪れた小林一茶は「染飯や我々しきが青柏」と、染飯の黄色と柏の葉の緑色が見せる色彩の対比を句に詠み入れている。 (life-in-edo_label-translations_jap-fa.pdf-106番より)]
[狂歌は、
「一丁亭羽狩
染飯にこかねの色もかそへつつ/一包買ふ春の家つと
知部方頼
うららかな春の瀬戸村菜の花と/見てや小蝶も通ふ染飯
若草末繁
花ハまだ見へねと春ハ棚ひきて/かすミかかれる藤枝の里
鳴子綱彦
霞引山のすそこハ紫の/八ツ藤枝の里のあけほの
淺水庵有人
此さとの春に宇治をもおもひ出ぬ/山吹の瀬と瀬戸の染飯』です。]
嶋田宿
[嶋田宿は大井川の左岸(江戸側)にあるため、増水で大井川の川越が禁止されると、お伊勢詣りなどの江戸から京都方面へ上る旅客が足止めされ、さながら江戸のような賑わいをみせた。長雨により、滞在費と遊興費に所持金を使い果たすことも珍しくなかった。そのため、所持金が無くなったり宿が満員になった際に家を借りた名残で、島田の旧・東海道沿いには御仮屋という地名がある。
「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川」と詠われた、東海道の難所の一つである。かつての川越し宿場は「島田宿大井川川越遺跡」として国の史跡となっている。 (wikipedia・島田宿より)]
『絵本駅路鈴』-嶋田(拡大画像リンク)
『春興五十三駄之内』-嶋田(拡大画像リンク)
[川越賃銭と越し方
大井川を渡るには、川札(川越札・油札ともいい、人足一人を雇うために札一枚が必要)を川会所で買い、川越人足に手渡してから、人の肩や連台に乗り川を越しました。
この川札の値段は、毎朝、待川越(まちかわごし)が水の深さと川幅を計って定めました。水深は股通とか乳通と呼び、股通の場合は川札一枚が四十八文でありました。
また、大井川の常水は帯通二尺五寸(約76センチ)で脇通四尺五寸(約136センチ)をこすと川留めになりました。川越しに必要な川札の枚数は次のとおりです。
1.肩車(かたくま)
川越人足の肩にまたがり越しました。川札は1枚。常水以上は手張(補助者)がつくので川札が二枚必要。
2.連台越し
(1)平連台(並連台)1人乗りの場合、担ぎ手4人で川札4枚と台札(川札の2枚分)の計6枚。
(2)平連台(並連台)2人乗りの場合、担ぎ手6人で川札6枚と台札(川札の2枚分)の計8枚。
(3)半高欄連台(半手すり二本棒)担ぎ手は、並台と同じ4人で川札4枚と台札(川札の4枚分)の計8枚。
(4)中高欄連台(四方手すり二本棒)担ぎ手10人、手張2人、台札(川札の24枚分)の計36枚。
(5)大高欄連台(四方手すり四本棒)担ぎ手16人、手張4人、台札(川札の32枚分)の計52枚。 (「大井川川越遺跡(おおいがわ かわごしいせき) – 島田市観光協会」より)]
[狂歌は、『大橋直道 大井川瀬を打こえて春かせの/こなたへわたるきしの梅の香』です。]