肥前長嵜圖(「国際日本文化研究センター – 肥前長嵜圖」より)
[絵図上左に南蛮船、その右に出島町「阿蘭陀屋敷」、中央に新地「唐人荷物蔵」、左下に「唐人屋敷」が描かれています。]
川原慶賀「長崎港図」(1836年頃)(wikipedia-photo)
1635年、江戸幕府は中国商船の入港を長崎一港に制限する措置を取ったが、キリスト教徒ではない中国人は長崎市内に雑居することを許されていた。そもそも、この時期に日本に渡航する中国人の数は少なかった。なぜなら、明朝が日本を倭寇の拠点とみなしていたため、中国人の日本渡航を禁じていたからである。清朝も明朝に引き続き、中国人の日本渡航を認めず、清朝が台湾の鄭氏政権対策として遷界令を発布している間、日本に渡航する中国人は、台湾もしくは東南アジアからの渡航が主であった。
しかし、清朝は鄭氏政権を屈服させ、遷界令を1684年に撤廃した。また、日本を倭寇の拠点ではないことを認めたことで、翌年以降中国商船が多数来航するようになった。そのために密貿易が増加したため、長崎奉行所では中国人の居住地区も制限することになり、1688年長崎郊外にある十善寺郷に幕府が所有する御薬園の土地で唐人屋敷の建設に着手し、翌年完成した。広さは約9,400坪に及び、2,000人程度の収容能力をもつ。現在の長崎市館内町の地である。周囲は塀と堀で囲まれ、大門の脇には番所が設けられ、出入りを監視した。ただ出島のオランダ人が厳重に監視されたのに比べ、中国人は比較的自由に出入りが許された。出島の建設費が長崎の町人の出費で賄われたのに対し、唐人屋敷の建設費は、長崎の町人が幕府から借金することで賄われた。 (wikipedia・唐人屋敷より)
「唐舟入津」(「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」 – 「 5巻 – 25p 」)
「唐舟入津 菩薩揚」(「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」 – 「 5巻 – 26p 」)
「長嵜唐人屋敷兼新地御蔵」(「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」 – 「 5巻 – 28p 」)
[1698年の大火で五島町や大黒町にあった中国船の荷蔵が焼失したため、倉庫に目が届きやすいよう、唐人屋敷前面の海を埋め立てて中国船専用の倉庫区域を造成した。この地域が新地と呼ばれる。1784年の大火では唐人屋敷全体が関帝堂を残して全焼、大火以後唐人が自前で住居などを建築することが認められた。1859年の開国によって唐人屋敷は廃屋化し、1870年に焼失した。その後、在住中国人は隣接の長崎市新地町に中華街を形成し、長崎新地中華街となる。 (wikipedia・唐人屋敷より)]
[明は1371年の倭寇対策である海禁令のため銀不足に陥っていたが、日本では1526年に石見銀山が開山され銀の生産量が急増した。倭寇の頭領であった平戸藩王直は1543年、種子島にポルトガル人とともに漂着し、ポルトガル商人はこれをきっかけに明の中国生糸を日本銀と交換する取引の仲介を始め(南蛮貿易)、明はマカオへの施設の設置を認めたので、ここをアジア貿易の拠点とした。オランダ商人らは、1609年には江戸幕府の許可を得て平戸藩領に平戸オランダ商館を設置した。江戸においてはオランダ商人は布教しない条件で営業を認められていたが、ポルトガル商人の関係者には同年、朱印状偽造事件が発生し、江戸幕府のカトリック信者やポルトガル商人に対する弾圧が始まった。出島は幕府によって1634年(寛永11年)から1636年にかけてポルトガル人を管理する目的で建設された。
肥前にあった松倉重政のキリシタン弾圧に対し1637年12月に島原の乱が発生すると、幕府は長崎滞在中のポルトガル使節の参府を禁じて出島に監禁した。
乱の終結後の寛永16年(1639年)、元平戸藩士の浮橋主水が、平戸藩にキリシタンの嫌疑があると江戸幕府評定所に訴え出た浮橋主水事件が起こり、平戸藩は幕府の按検を受けた。訴えは誣告であるとされたが、平戸に立ち寄った幕府の松平信綱は、平戸藩がオランダとの独占的な交易により強力な兵備を持っていることに気づいた。そのこともあり、幕府は寛永18年(1641年)、平戸藩領にあった平戸オランダ商館を、ポルトガル人を排除したのちの出島に移転させ、以後は開港地を出島に限定した。 (wikipedia・出島より)]
「長嵜出島紅毛屋敷 紅毛舩入津」(「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」 – 「 5巻 – 30p 」)
「紅毛舩」(「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」 – 「 5巻 – 31p 」)