「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」に描かれる蝦夷

アイヌは、人類学的には日本列島の北海道縄文人と近く、約3万8千年前に海を渡った本州以南との交易も行われた。本州以南で農耕文化の弥生時代が始まったころ、北海道では狩猟採集生活様式が継続する続縄文文化の生活様式が営まれていた。大和朝廷による記録として、日本書紀には阿倍比羅夫齶田/飽田(秋田)・渟代(能代)・津軽の蝦夷を平定し朝貢を受けたこと、渡嶋(現在の北海道と考えられる)へ渡った阿倍比羅夫が当地の蝦夷の要請を受けて、蝦夷と軍事的緊張状態にあった「粛慎」(オホーツク人とする説があるが詳細は不明)を征討したという記事が見られる。
12世紀以降、道南に和人の定着が始まり、13 – 14世紀には鎌倉幕府によって安東氏蝦夷管領に任じられ、道南に幕府の影響力が及ぶようになった。13世紀までにはアイヌは樺太へも進出し定住していたが、やがて樺太在地のニヴフ(オホーツク文化人の子孫と考えられる)と対立するようになった。そこでニヴフがモンゴル帝国に救援を要請したため、1264年、モンゴル帝国は樺太に侵攻し、アイヌ征討を図った。アイヌとモンゴルとの間の戦争は長期化したが、1308年、樺太アイヌがモンゴルに毎年獣皮を朝貢する事を条件に講和が成立した。
アイヌからオロッコと呼ばれたウィルタともアイヌは交易していた。1457年には道南でコシャマインの戦いが生じ、勝利した蠣崎氏が台頭した。蠣崎氏を祖先とした松前藩はアイヌとの交易を独占し、アイヌから乾燥鮭・ニシン・獣皮・鷹の羽(矢羽の原料)・海草を入手し、対価を鉄製品・漆器・米・木綿などで支払っていた。また、清から伝わった蝦夷錦などの衣服を当初はアイヌを介し輸入した(山丹交易)。北千島を除き、郷村制が敷かれ、アイヌの有力者を役蝦夷に任命。アイヌは百姓身分に位置づけられていた。1669年のシャクシャインの戦い後には、交易はアイヌにとって不利な条件となった。江戸幕府ロシアからの軍事圧力に対抗して蝦夷地を幕府直轄領とした。幕末箱館奉行によって、アイヌも和人も分け隔てなく疱瘡対策の種痘を行い、同時にアイヌの呼称は「蝦夷」から「土人」に改称された。これは当時、純粋に「土地の人」や「地元の人」の意味で用いられた言葉である。  (wikipedia・アイヌより)

『日本山海名産図会』 – 蝦夷人 捕膃肭(「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」 – 「 5巻 – 20p 」より)

『日本山海名産図会』 – 蝦夷 運上屋(「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」 – 「 5巻 – 22p 」より)

[運上家ともいう。場所請負人によって蝦夷地内(北海道・樺太・北方領土)の場所ごとに85か所設けられ、そこには支配人・通弁・帳役、番人が詰め、住民の撫育政策・オムシャもおこなわれた。この他に漁場ごとに番屋も置かれこちらにも番人が詰めた。運上屋は交易の拠点として設けられたが、やがて漁場の経営も取り扱うようになり、宿場(旅宿所・通行家)や松前藩の出先機関としても機能するようになった。蝦夷地が公儀御料となっていた頃には会所と呼ばれた。大政奉還の直前ころにこの運上屋は廃止となり、「本陣」と呼ばれる箱館奉行の出先機関となった。後志国余市郡(ヨイチ場所)には旧下ヨイチ運上家の遺構が残っている。  (wikipedia・場所請負制より)]