「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」に描かれる肥前伊万里焼

マーカーは陶祖李参平の碑です。

伊万里焼(いまりやき)は、有田(佐賀県有田町)を中心とする肥前国(現代の佐賀県および長崎県)で生産された磁器の総称。製品の主な積み出し港が伊万里であったことから、消費地では「伊万里焼」と呼ばれた。有田の製品のほか、三川内焼波佐見焼鍋島焼なども含む。
佐賀藩(鍋島藩)の藩祖鍋島直茂豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592年 – 1598年)に参加したことをきっかけに、朝鮮から多くの陶工が生活のため佐賀へ渡った。これらの陶工によって有田における磁器製造が開始された。通説では朝鮮出身の李参平(日本名:金ヶ江三兵衛)が有田の泉山で磁器の原料となる陶石を発見し、元和2年(1616年)に有田東部の天狗谷窯で磁器焼造を始めたとされている。金ヶ江三兵衛が実在の人物であることは古文書等から確認されているが、元和2年(1616年)に初めて磁器を焼造したということは史料からは確認できない。
1640年頃からは鍋島藩が将軍家・諸大名などへの贈答用高級磁器をもっぱら製造する藩窯が活動を開始。この藩窯製品を今日、「鍋島様式」あるいは「鍋島焼」と呼んでいる。
中国では1644年に明王朝が滅亡。1656年にはにより遷界令が発せられて、商船の航行が禁止され、中国陶磁の輸出が一時途絶えた。このため、オランダ商館長ツァハリアス・ヴァグナーは中国製陶磁器を見本としてヨーロッパ人の好みに合う製品を制作するように依頼し、伊万里焼の海外への輸出が始まった。中国製磁器の輸出が再開されてからは、東南アジア方面の市場は中国製磁器に奪還されたが、ヨーロッパ方面への伊万里焼の輸出は継続した。
1670年代には、素地や釉薬が改良され、白磁の地にほとんど青味のない「濁手」(にごしで)と呼ばれる乳白色の素地が作られるようになった。この濁手の素地に色絵で絵画的な文様を表したものを「柿右衛門様式」と称している。
1690年代には染付の素地に赤、金などを多用した絵付を施した製品が作られるようになった。これを「古伊万里金襴手」と称し、この種の様式のものがヨーロッパ向けの輸出品となった。  (wikipedia・伊万里焼より)

『日本山海名産図会』 – 肥前伊万里陶器(「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」 – 「 5巻 – 10p 」より)

『日本山海名産図会』 – 肥前伊万里陶器 素焼窯 過銹 打圏書画(「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」 – 「 5巻 – 11p 」より)

『日本山海名産図会』 – 肥前伊万里陶器 本窯(「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」 – 「 5巻 – 13p 」より)