引又河岸

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引又河岸
[引又河岸(ひきまたかし)は江戸時代川越藩によって制定された新河岸川河岸場。現在の埼玉県志木市に位置する。
江戸時代前期に新河岸川の舟運が始まると、沿川には多数の河岸場が置かれた。その中で引又河岸は、奥州道(現:志木街道)と新河岸川の交点に位置し、内陸部との交通に恵まれていた為、明暦から寛文年間にかけて、市(六斎市)や宿場(引又宿)が設けられていった。 幕末から明治初期にかけて最も繁栄するも、大正時代に東上鉄道(現:東武東上線)が開通して、舟運とともに衰退した。
「荒川・新河岸川の河岸場」・wikipedia-photo  (wikipedia・引又河岸より)]

いろは樋
[いろは樋(いろはどい)は、寛文2年(1662年)埼玉県志木市の新河岸川に架けられた野火止用水の水路橋である。野火止用水の水を新河岸川を跨ぎ越して、宗岡地区に導いた。
新河岸川の左岸と荒川の右岸に挟まれた宗岡地区は、度重なる水害と恒常的な農業用水不足に悩まされた。この地域を知行していた旗本、岡部忠直は、現志木市本町(旧引又)から新河岸川に無効用水(末流)が流れていたのを見て、家臣の白井武左衛門に命じ、新河岸川に総延長126間(260 m)の水路橋を架設した。樋は船の通行を妨げないようにするため、水面から4-5メートルの上方に架けられた。
いろは樋は新河岸川の度重なる洪水によって何度も崩壊していくうちに修復に使う費用の負担も大きく、また、樋に使用する巨材の調達も次第に難しくなったため、1898年(明治31年)からのいろは樋の工事では木管を鉄管に変え、従来の水路橋ではなく川底に通していく伏越工法(ふせこしこうほう)を採用した。それと同時に小枡、大枡を従来の木製からレンガ製に替えた。川を越えた宗岡地区側にも流水受取口の大枡が設置され、総延長60間(109.1 m)の宗岡潜管が完成した。
1951年(昭和26年)に当用水路を飲料水にしていた新座市野火止の住民50人が赤痢になった。これらによって上水道の普及が進み、野火止用水は1965年(昭和40年)に下水道管となり、宗岡潜管との接続を遮断した。  (wikipedia・いろは樋より)]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図 」・「宗岡里内川」(13-37)、「宗岡宿、内川解説」(13-36)
宗岡里内川(拡大図)

[図会に描かれる道は志木街道で、図会下に新河岸川、川左に引又橋、右にいろは樋が描かれています。]
[伊呂波樋は、昔この地の領主、引又より川を隔てて宗岡の地へ樋を通し農耕の助けとせられし頃、四十八段に掛けたりしにより、 この称ありといへり。
『回国雑記』むね岡といへるところを通りはべりけるに夕煙あらそふ暮れをみせてけりわが家々のむね岡の宿 道興准后]

いろは親水公園 – Google Map 画像リンク」、「いろは樋の小桝・埋樋(復元) – Google Map 画像リンク

カメラ東北東方向祠左に引又河岸跡案内板があります。

カメラ北西方向にいろは樋の小桝・埋樋(復元)があります。(Google Map)