中山道分間延絵図(新町宿)

絵地図初期設定画面に「新町宿(高崎市新町)」と記述され、その下、中山道内に「高札場」が描かれ、そこの左側街道上に「脇本陣(三俣脇本陣)」、「問屋場」、右側街道上に「問屋場」、右方向街道内に「市神」が描かれています。その上方向右から「浄泉寺」、「専福寺」、「新町諏訪神社」が描かれています。絵地図を右にスクロールすると「勅使河原村(埼玉県児玉郡上里町勅使河原)」と「新町宿」との境界となる「神流川」が描かれています。
[新町宿は神流川烏川に挟まれ、特に神流川は度々氾濫を繰り返した事で川止めの宿としても多くの旅人や商人達が利用する事になりました。又、舟運の拠点である新町湊(河岸)を擁していた事で物資の集積地となり経済的にも発展し天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」では本陣2、脇本陣1、旅籠43軒、家屋407軒と記録され繁栄が窺えます。
本陣は小林甚左衛門家と久保五左衛門家が歴任し、両家の建物は共に失われていますが、小林家は建坪135坪、久保家の規模はやや小規模で文久元年(1861)に皇女和宮が14代将軍徳川家茂に降嫁として江戸に向う途中に御小休所として利用されています。  (「新町宿-中山道(上州路) – 群馬県:歴史・観光・見所」より)]

絵地図初期設定画面左端街道に赤○印が描かれています、そこが「立石新田(藤岡市立石新田)」と「立石村(藤岡市立石)」との境界で、右上に「立石新田(藤岡市立石新田)」と記述され、そこに川端家住宅があることになります。絵地図をスクロールすると新町宿が描かれ、宿場左端の街道横断水路が温井川で、橋中央に赤○印が描かれています、そこが「新町宿」と「立石新田」との境界で、新町宿西口(京口)になります。そこの右上、街道下に「本陣(小林本陣)」と記述され、そこの右上、街道上に「問屋場」、そこの右方向に「本陣(久保本陣)」と記述され、絵地図右端街道内に「高札場」が描かれています。

絵地図初期設定画面に「中嶌村(藤岡市中島)」と記述され、そこが現在の「中島一里塚地」と想定されています。そこの右上街道に赤○印が描かれています。そこが「立石村」と「中嶌村」との境界になります。絵地図を右にスクロールすると「立石村(藤岡市立石)」と記述され、その右上街道に赤○印が描かれています。そこが、「立石新田」と「立石村」との境界になります。

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