中山道分間延絵図(軽井沢宿)

絵地図初期設定画面上に「熊野皇大神社」が描かれています。社殿は群馬県安中市長野県北佐久郡軽井沢町にまたがっており、参道と本宮の中央を県境が通る。参道下街道内に「松井田町峠」と「軽井沢町峠町」との境界を示す赤○印が描かれています。そこの右側が「松井田町峠」、左側が「軽井沢町峠町」になります。軽井沢宿方向の赤○印は軽井沢町峠町の西側の境界になります。坂本宿方向右に「高札場」が描かれ、その右に「仁王門」が描かれています。「熊野皇大神社」に1354年(文和3年)に奉納された多重塔に「当社権現」と刻されることなどから、神仏混淆となっており、「神宮寺」や「仁王門」もあったとされ、「神宮寺」は寛文2年(1662年)に現在の地(北佐久郡軽井沢町軽井沢旧軽井沢646)に移されました。
[峠町
[現在地名]松井田町峠、長野県北佐久郡軽井沢町峠
関東山地最奥部、碓氷川水源地帯の上野国と信濃国境に形成された町。中山道の峠の茶屋として、また同じく両国にまたがる熊野神社の門前町・社家町として発達した。上野国の郷村帳類にはみえないが一村として認識されていたようである。信州からの道は東山道の時代には入山いりやま峠を通り、のち北方の当地に移ったと考えられている。信濃国の元禄郷帳に無高として「熊野社峠町」とみえる。延宝九年(一六八一)安中領峠村五人組人別馬数改帳(水沢文書)によると人数一九一・馬数一二、安永二年(一七七三)村明細帳(同文書)では熊野権現社家三〇・人数一三一。社家は信徒が講を組んで参拝するときの宿泊料によっても生計をたてていた(郡村誌)。  (「峠町(とうげまち)とは? 意味や使い方」より)]

絵地図を右にスクロールすると街道内に赤○印が描かれています。そこは、「峠町(北佐久郡軽井沢町峠町)」の境界になります。
  

絵地図左端に「矢ヶ崎川二手橋」が描かれています。
 

絵地図初期設定画面に「軽井沢宿」と記述され、その下に「本陣」と記述され、中山道に「高札場」が描かれ、「軽井沢宿」記述右下方向に「神宮寺」が描かれています。絵地図を右にスクロールすると「矢ヶ崎川二手橋」が描かれています。背景山の懸崖前に描かれる神社は「三笠愛宕神社」と思われます。

絵地図初期設定画面中央右に板橋が描かれています、そこが西の桝形、その左に分岐道筋が描かれています、そこは現在の軽井沢本通になると思います。絵地図右端街道上下に「軽井沢一里塚」が描かれ、絵地図を右にスクロールすると「軽井沢一里塚」右下に「諏訪神社」が描かれ、絵地図右端街道内に「高札場」、水路が描かれ、その上に「軽井沢宿」と記述されています。

絵地図初期設定画面左の街道横断水路は「精進場川・野沢橋」で、その上に描かれる池は「霊場池」になります。

絵地図を右にスクロールすると、「精進場川」、「霊場池」が描かれています。

絵地図初期設定画面中央の水路右街道内に赤○印が描かれています。そこが「軽井沢宿」と「沓掛宿」との境界になります。そこの地点左上の池は「雨宮の池」で、上方に「離山(はなれやま)」が描かれています。現在この付近の旧中山道は離山通りと呼ばれています。

  中山道分間延絵図(坂本宿)    中山道分間延絵図(沓掛宿)