六十余州名所図会(五畿内)

『六十余州名所図会 山城 嵐山 渡月橋』(wikipedia-photo)

[図会下、大堰川(桂川)に架かる橋が渡月橋、渡月小橋、その間の島が中之島、図会上に桜満開の嵐山、その中腹から流れ落ちる滝が戸無瀬の滝になります。]

[戸無瀬の滝
 戸無瀬の滝は渡月橋の上流にあり、嵐山から大堰川に流れ落ちる滝で、天龍寺蔵王権現堂の背後に位置していた。
 平安時代から多くの和歌に詠まれ、鎌倉時代の中期には、藤原定家の息子の為家が「雲かかる山の高根の夕立に戸無瀬の瀧の音まさるなり」とこの滝の様子を歌に詠んでいる。
 室町時代の初期には、天龍寺の開山である夢窓疎石が天龍寺十境の一つとして戸無瀬の瀧を三級巌と名付け、三段になって流れ落ちる様子は、江戸時代の「都名所図会(巻四『嵐山・法輪寺・渡月橋』)」や「都林泉名勝図会(巻五『法輪寺十三参・渡月橋』)」、歌川(安藤)広重の筆による「六十余州名所図会」などに描かれている。「戸難瀬」「戸灘瀬」とも書かれる。
 この滝は、江戸時代初めに角倉了以によって行われた保津川の開削工事によりその多くが削り去られたといわれている。現在、上流ではその残影を見ることができるが、明治以降、災害防止のために行われた治山工事による規模縮小、禁伐に伴い常緑樹が繁茂し、対岸からほとんど見えなくなるなど、往事の姿をうかがい知ることはできない。 
 京都市  (「戸無瀬の滝」より)]

「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」に描かれる吉野葛」にリンク

『六十余州名所図会 大和 立田山 龍田川』(wikipedia-photo)

[図会下の川が葛下川で龍田川の合流点が描かれているように想像しています。龍田川には筏流し、絵図上に立田山(三室山)が描かれ、山頂に龍田大社本宮があったと言われています。]
[竜田川やその近くにある三室山は、百人一首にも登場している。とくに下流は紅葉の美しさから、歌枕として古来より多くの和歌に詠まれた。百人一首では二首撰ばれている。中でも在原業平の和歌は有名である。この歌を題材とした「千早振る」という落語もよく知られている。なお、この当時の竜田川は現在の竜田川(平群川)ではなく、大和川本流の三郷町立野から大阪府境までを指しているというのが定説。後の時代に紅葉の名所として観光地にするため、地元が現在の平群川を竜田川と称したため、いつのまにか現在のような状態になったと言われている。 (wikipedia・竜田川)


[カメラ位置は葛下川(かつげがわ)に架かる出会橋で、カメラ方向合流先が大和川になります。]

『六十余州名所図会 河内 牧方男山』(wikipedia-photo)

[淀川西岸の集落は大塚、築堤道路が茨木街道、東岸に描かれる集落は堤町で、ここに舟番所がありました。遠景には男山(石清水八幡宮神域)が描かれ、淀川には20石船が行きかっています。]


国道170号枚方大橋上空からの鳥瞰カメラで、カメラ初期設定下淀川東岸のエリアは淀川アクアシアターになり、その上の山並みが男山(石清水八幡宮)になります。

[過書船と伏見船の船番所
通行手形を持つ特権川船のことを過書船と称し、享保初年(1716)には、乗客を主とした30石船671艘、貨物運送を主とした20石船507艘が、大阪(八軒家船着場跡碑)と京・伏見(伏見港)の間を航行していました。
 一方、過書船の営業独占に対抗して、元禄11年(1698)に伏見船の営業が認められたため、両者は、激しく競合しました。泥町村には、過書船・伏見船の船番所がそれぞれ設置され、淀川を上下する船を監視しました。
30石船とくらわんか舟
 30石船は船頭4人、乗客定員28人で伏見から大阪への下りは半日か半夜、上りは、竿をさしたり、綱を曳き上げるため、1日か1晩を要しました。
 船客相手に飲食物を商う煮売茶舟(にうりちゃぶね)は、「餅くらわんか、酒くらわんか」という売り言葉から俗に「くらわんか舟」と呼ばれました。  (「船番所跡 – 枚方市 – LocalWiki」より)]

『六十余州名所図会 和泉 高師のはま』(wikipedia-photo)

[図会左下に高石神社、その前道が紀州街道、描かれる浜が高師浜、図会上左の島影が淡路島、右陸地が播磨、その間が明石海峡になります。]

紀州街道から見た高石神社。

「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」に描かれる伊丹酒造」にリンク

「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」に描かれる摂州御影石」にリンク

『六十余州名所図会 摂津 住よし 出見のはま』(wikipedia-photo)

[図会高灯籠左に十三間川に架かる長峡橋、その先に出見の浜、海上に淡路島が描かれています。]

十三間川周辺のジオラマ

なにわの海の時空館で初めて江戸時代の大坂の立体模型を見た時は、周囲を何度か回りながら、しばらく見とれてしまいました。いろんな角度から写真を撮った中から、十三間川のイメージが最も分かりやすい1枚を載せてみます。残念ながら加賀屋新田会所のあった場所や大坂城方面は、ジオラマ範囲に入ってはいませんが、水都大坂と称された頃の水路はほぼ全て再現されているようです。
 上写真に少し説明を加えますと…、 十三間川を北向きに下ってすぐ右手に住吉の高灯籠、高灯籠から東(右)へ600m程で住吉神社、高灯籠から約5km下って七瀬川との出合、七瀬川を500mほど溯って木津川との出合、木津川を800mほど溯って道頓堀川(道頓堀(道とんぼりの図))との出合、道頓堀川を約2km溯れば芝居小屋のある戎橋 …となるわけです。  (「十三間川を下って大坂へ : 大阪を歩こう – livedoor」より)

「住吉公園歴史探訪」第11号 – 大阪府営5公園


[住吉大社正面の大鳥居から現在の住吉公園の中央を西へ貫く道には、今も両側に石灯籠が残っています。かつての高灯籠は、昭和49年に東約200mへ移転し復元されています。元禄11年 (西暦1698年) に開削された十三軒堀川から船で参詣・来遊することが盛んでしたが、今は埋め立てられ上に阪神高速道路が走っています。大社前の長狭 (ながお) の浦は出見の浜とも呼ばれ、潮干狩りの名所でした。こちらは今は南港西端から7kmあまりも内陸の地となってしまいました。  (「いにしえの住吉の浜辺と長居の里 | すみよし探歩」より)]