六十余州名所図会(北陸道)

『六十余州名所図会 若狭 漁舩 鰈網』(wikipedia-photo)

[歌川広重『六十余州名所図会』(1853~1856年)(No.30)「若狭 漁船 鰈網」 – 帆の左右の縁に付ける「両方綱」が描かれている。網の中にカレイと蟹が描かれている。『日本山海名産図会』(1799年)の若狭鰈網の説明には、「若狭越前敦賀の漁師が手繰網を用いて、30里沖の50の深さの鰈場で、30斗の船に12~13人乗り込み左右に分かれ、帆を横に掛けその力を借りて網を引く。網に浮子(アバ)と沈子(イワ)を付けて網口を広げる。混獲されるものは蟹が多い。」と書かれている。また、『福井県史 通史編3 近世一』(1994年)には、敦賀川向の両浜の漁師たちは「羽賀瀬船」(天渡(てんと)船 )を使用して沖手繰網や底延縄の漁をしていたと書かれている。他方、『福井県史 通史編4 近世二』(1996年)には、若狭で打瀬網が曳かれた史料は無く、また、越前では干満が小さいため干潟ができず、ウニは潜水で捕獲するので『日本山海名産図会』の若狭鰈網と越前海膽の二つの漁法は、太平洋や瀬戸内海などの漁労風景を写したものだろうと指摘している。  (wikipedia・打瀬網漁#挿絵説明より)]

『日本山海名産図会』 – 若狭鰈網(「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」 – 「 3巻 – 20p 」より)

『日本山海名産図会』 – 若狭蒸鰈制(「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」 – 「 3巻 – 22p 」より)

『福井県史』通史編4 近世二 – 第四節 漁村の変貌 一 漁業技術の発展 手繰網の普及

小浜市小浜港の大網繕い風景のカメラです。

『六十余州名所図会 越前 敦賀 氣比ノ松原』(wikipedia-photo)

気比松原上空海上からの鳥瞰カメラです。

[気比松原(けひのまつばら)は、福井県敦賀市の景勝地。虹の松原三保の松原に並び、日本三大松原の一つとされ、1934年(昭和9年)に国の名勝に指定されている。また、若狭湾国定公園の一部であり、みなとオアシス敦賀の構成施設の一でもある。平安時代の9世紀には、石川県羽咋郡志賀町福浦港の福良津と共に渤海使のための施設松原客館が置かれた。古来より氣比神宮の神苑として神人が近隣住民の利用を管理していたが、戦国時代に入ると1570年(永禄13年/元亀元年)の織田信長越前攻略により氣比神宮の所領などが没収され、このときに松原も没収された。江戸時代には小浜藩御用木(藩有林)となり、近隣住民は藩への納税によって燃料となる松葉採集を行ってきた。松原はこうした管理によって後世へと残った。  (wikipedia・気比松原より)]

『六十余州名所図会 加賀 金澤八勝之内 蓮湖之漁火』(wikipedia-photo)

[この作品では、金沢の漁火(いさりび)が描かれている。漁火とは、船に焚いた火によって魚をおびき出して行う漁。蓮湖は現在は埋め立てにより河北潟となっておりこの風景は大きく変わった。江戸時代の同地域の様子を知ることのできる一枚である。  (「広重 / 六十余州名所図会 加賀 金澤八勝之内蓮湖之漁火 | 神保町」より)]

河北潟才田大橋からのカメラです。

[河北潟(かほくがた)は、石川県中部にある潟湖である。金沢平野の北部に位置し金沢市河北郡内灘町にまたがる。古くは蓮湖・大清湖(たいせいこ)とも呼ばれており、潟を埋め立てて農地に切り開こうという試みは、小規模ながらも古くから何度も繰り返されてきた。このことは潟端(津幡町)の地名などに痕跡が見られる。新田開発を目的とした本格的な干拓は1672年(寛文12年)または1673年(延宝元年)に5代目加賀藩前田綱紀が鷹狩りで河北潟を訪れた時、湖畔が新田開発に適した土地であることを認め、農民を入植させて約3haの開墾(かいこん)を実施したのが始まりである。以降数次にわたる小規模埋立が行われた後、1849年(嘉永2年)、豪商銭屋五兵衛によって230haの埋立によるる巨大な新田開発が開始された。この時に綱紀が記念に植樹したシイノキの巨木が、集落の民家の庭に今も残っている。1851年には、五兵衛は私財を投じて干拓を試みた。しかし埋め立ての土砂を固めるのに石灰を使用したことを毒物を流したと曲解され、翌年、付近で発生した伝染病の原因がその毒物で汚染された魚を食べたからと噂された。このため五兵衛は投獄され、獄中死したため事業は中断された。  (wikipedia・河北潟より)]

『六十余州名所図会 能登 瀧之浦』(wikipedia-photo)

[能登金剛(のとこんごう)は、石川県能登地方羽咋郡志賀町に位置する景勝地である。約30kmに亘って奇岩、奇勝、断崖が連続する海岸であり、能登半島国定公園の代表的な景観の一つ。2007年の能登半島地震では一部が被害を受けた。一帯の海岸は日本海の荒波によって浸食されたもので、名称は朝鮮半島有数の景勝地、金剛山(現北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国江原道に所在)に因み、それに匹敵する景観という意味合いを持つ。見所としては巌門、関野鼻、機具岩、ヤセの断崖、碁盤島、吹上滝、増穂浦、玄徳岬などがある。歌川広重は六十余州名所図会の『能登 瀧之浦』に巌門、不動の滝、鷹の巣岩を描いている。  (wikipedia・能登金剛より)]

カメラ南西方向に鷹の巣岩、カメラ北方向階段左側に巌門、右側に不動の滝があります。

『六十余州名所図会 越中 冨山 舩橋』(wikipedia-photo)

[舟橋架橋以前には、舟渡しが両岸連絡の任務を果しており、その渡し舟に関する掟は、1580年(天正8年)11月に佐々成政が定めたものが最も早いものとされる。船橋は両岸に鎖杭という太さ4尺(約1.21m)、地上部分の長さ1丈5尺(約4.55m)もある欅の柱をそれぞれ2本立て、太い鉄鎖(一つ長さ約25cm)を両岸より渡し、その鎖に長さ6間余(約10.91m)、幅6尺2寸(約1.88m)、深さ1尺7寸5分(約53.0cm)の舟を64艘浮かべ繋ぐ。鎖は中央で鍵で繋ぎ碇をつけて川底に固定した。舟の上には長さ5間2尺(約9.45m)、幅1尺2寸以上(約36.4cm)、厚さ3寸(約9.1cm)の板を4列で32枚を掛け、大水のときには規定水位を超えると鍵を外して橋を切り離し流失を防いだ。また橋を切り離し再び繋ぐまでは渡し船を出していた。なお後に、板は7列に、鎖は1649年(慶安2年)以降、雄雌2条の鎖に変更されている。  (「舟橋_(富山市)」より)]

淵上旭江作『山水奇観』 – 越中船橋(「国立公文書館デジタルアーカイブ – 山水奇観」より)

カメラ北方向左に船橋常夜灯、右に神通川船橋跡案内板があります。

[江戸時代北陸街道高岡方面から富山城下に入る時、神通川に架かる船橋を渡りました。船橋とは、小船をつないで上に板をわたしたもの。最大64艘の小船がつながれた大規模なもので、日本一と言われました。歌川広重も『六十余州名所図会』に描いています。船橋の両岸には常夜灯が置かれ、一晩中明かりが灯され、夜道の安全のための道しるべとなりました。現在、右岸側が松川(神通川の名残り)に架かる舟橋のたもとに、左岸側が県森林水産会館前に残されています。これらの常夜灯には、「寛政十一歳未初春」と彫られています。つまり、1799年ですから、今から218年も前になります(2017年現在)。富山町年寄の内山権左衛門逸経が寄進したそうです。なお、権左衛門は、寛政7年の神通川洪水で船橋が壊れた時、その修理にあたって本陣を務めたそうです。  (「船橋常夜灯 (富山市)…今から218年前(2017年現在)に建立」より)]

『六十余州名所図会 越後 親しらず』(wikipedia-photo)

[かつて越後国越中国の間を往来する旅人は、この断崖の下にある海岸線に沿って進まねばならず、古くから北陸道(越路)最大の難所として知られてきた。波間を見計らって狭い砂浜を駆け抜け、大波が来ると洞窟などに逃げ込んだが、途中で波に飲まれる者も少なくなかったといわれる。
「親不知」の名称の由来は、幾つかの説がある。一説では、断崖と波が険しいため、親は子を、子は親を省みることができない程に険しい道であることから、この名が付いたとされている。また、以下のような伝承もある。
壇ノ浦の戦い後に助命された平頼盛越後国蒲原郡五百刈村(現在の新潟県長岡市)で落人として暮らしていた。都に住んでいた妻はこのことを聞きつけて、夫を慕って2歳になる子を連れて京都から越後国を目指した。しかし、途中でこの難所を越える際に、連れていた子供を波にさらわれてしまった。悲しみのあまり、妻はその時のことを歌に詠んだ。
「親不知 子はこの浦の波枕 越路の磯の 泡と消え行く」
以後、その子供がさらわれた浦を「親不知」と呼ぶようになったとする伝説もある。  (wikipedia・親不知より)]

「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」に描かれる越後上布」へリンク

『六十余州名所図会 佐渡 金やま』(wikipedia-photo)

「史跡 佐渡金山」坑道の入口

道遊の割戸

[慶長6年(1601年)徳川家康の所領となる。同年、北山(ほくさん)(金北山)で金脈が発見されて以来、江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。特に17世紀前半に多く産出された。江戸時代における最盛期は江戸時代初期の元和から寛永年間にかけてであり、金が1年間に400 kg以上算出されたと推定され、銀は1年間に1万貫(37.5 トン)幕府に納められたとの記録がある。当時としては世界最大級の金山であり、産銀についても日本有数のものであり江戸幕府による慶長金銀の材料を供給する重要な鉱山であった。なかでも相川鉱山は、江戸幕府が直轄地として経営し、大量の金銀を産出した佐渡鉱山の中心であった。産出し製錬された筋金(すじきん/すじがね)および灰吹銀は幕府に上納され、これを金座および銀座が預かり貨幣に鋳造した。また特に銀は生糸などの輸入代価として中国などに大量に輸出され、佐渡産出の灰吹銀はセダ銀とも呼ばれた。しかし江戸中期以降佐渡鉱山は衰退していった。1690年には佐渡奉行を兼任していた荻原重秀が計15万両の資金を鉱山に投入する積極策を取って復興を図り、その結果一時的に増産に転じたが、結局その後は衰微の一途を辿り、以降江戸時代中に往年の繁栄が戻ることはなかった。江戸時代後期の1770年頃からは江戸大阪などの無宿人(浮浪者)が強制連行されてきて過酷な労働を強いられたが、これは見せしめの意味合いが強かったと言われる。無宿人は主に水替人足の補充に充てられたが、これは海抜下に坑道を伸ばしたため、大量の湧き水で開発がままならなくなっていたためである。水替人足の労働は極めて過酷で、「佐渡の金山この世の地獄、登る梯子はみな剣」と謳われた。江戸の無宿者はこの佐渡御用を何より恐れたといわれる。水替人足の収容する小屋は銀山間の山奥の谷間にあり、外界との交通は遮断され、逃走を防いでいた。小屋場では差配人や小屋頭などが監督を行い、その残忍さは牢獄以上で、期限はなく死ぬまで重労働が課せられた。  (wikipedia・佐渡金山より)]