六十余州名所図会(山陽道)

『六十余州名所図会 播磨 舞子の濱』(wikipedia-photo)

[神戸市垂水区の西側あたりから明石市の東あたり一帯の浜を、古くは舞子の浜と呼び、須磨の浜と並ぶ名所で、江戸時代には旅の休憩所として多くの待合茶屋が存在した。歌川広重画「播磨舞子の浜」では、風や強い波により砂が流され、自然に「根上り松」のような形となった白砂青松の美しい海岸風景が描かれている。  (wikipedia・舞子公園より)]
[舞子の地名の由来は諸説あり有名なものでは明石海峡の潮が舞い込む「廻い込浜」から転訛して舞子の字があてられた等、他にもいろいろな言い伝えがある。
●多く茂っていた松の木の枝ぶりが、女性の舞う姿に似ていることが由来という説。  (wikipedia・舞子_(神戸市)より)]

舞子浜「白砂青松」の再現前のカメラです。

『六十余州名所図会 美作 山伏谷』(wikipedia-photo)

[山伏谷という地名は実際にはなく、山伏の修業の場であったという本山寺近くの渓谷当たりと思われます。奇岩がそそり立つ景観には、様々な太さの 線が幾筋も横切り、吹き付ける風の激しさを表現しています。天候を描いた中でも抜きん出て秀逸な、シリーズ中の傑作です。  (「美作 山伏谷|歌川広重|浮世絵のアダチ版画」より)]

二代目・歌川広重が「諸国六十八景 美作山伏谷」を描いています。「【諸国六十八景 美作山伏谷(KM500/7)】 - デジタル …」の概要に「絵師は、二代歌川広重、版元は蔦屋吉蔵。「諸国六十八景」は、文字通り全国の名所、景観を一国につき一つずつ取り上げた全68図のシリーズである。岡山県内の景観3箇所(美作山伏谷の地蔵巌、備前藤戸渡の粒江山と浮洲岩、備中酒津川の黒田)は、いずれも岡山出身の淵上旭江の版本『山水奇観』にある絵をほぼそのまま使用している。『山水奇観』によると、川は津山川(=吉井川)、奇岩は地蔵巌とあるが、場所については長らく不明となっていた。御船恭平氏によると美咲町の勝久橋西山麓の巨巌がこの地蔵巌であるという。」と記述されています。

淵上旭江作『山水奇観』 – 美作山伏谷(「国立公文書館デジタルアーカイブ – 山水奇観」より)

勝久橋東詰めから南方向のカメラです。

『六十余州名所図会 備前 田の口海濱 瑜賀山鳥居』(wikipedia-photo)

[備前国(びぜんのくに:岡山県)の倉敷市児島田の口港の大鳥居の景観である。明治初期までは、田の口港から7km離れた由加山・瑜伽大権現(由加神社本宮)と、讃岐国(さぬきのくに:香川県)金毘羅大権現(金刀比羅宮)を詣でる両参りが盛んであった。瀬戸内海を渡る大型船と大型船までの通船の様子が描かれ、田の口が門前町として賑わったと考えられる。  (「六十余州名所図会 – 東京情報大学」より)]
[田の口港(倉敷市児島田の口5丁目)に石造の大鳥居があるのは「金毘羅・由加山両参り」の巡礼者が、船から下船し、由加山へと向かうための参詣口だったから。
かつては海の中にあり、ここから徒歩で山上へと向かったのです。
大鳥居前の狛犬は由加神社本宮の狛犬と同様に備前焼
嘉永6年(1853年)刊行、歌川広重の『六十余州名所図会』にも「備前 田の口海濱 瑜賀山鳥居」が描かれています。  (「由加神社本宮 – ニッポン旅マガジン」より)]

「金毘羅・由加山両参り」参道鳥居前のカメラで、海側に備前焼の狛犬があります。

『六十余州名所図会 備中 豪溪』(wikipedia-photo)

「天柱」の文字が刻まれている、天柱山直下の岩盤前のカメラです。

[豪渓(ごうけい)は、岡山県総社市北端から同県加賀郡吉備中央町にわたる、高梁川支流槙谷川の上流に位置する渓谷である。日本五大名峡の一つに数えられる。岡山県道57号総社賀陽線に沿った全長は600mの渓谷で、花崗岩節理に沿って風化、浸食された奇岩、奇峰が連続する景勝地となっている。1923年に国の名勝に指定された。
豪渓(2008年6月)

天柱山と呼ばれる高さ330mの岩峰が一番の名所とされる。天柱山直下の岩盤には、「天柱」の文字が刻まれている。これは、江戸時代後期の享和元年(1801年)に頼山陽の開いた塾で学んだ備前国和気郡の医師で書家の武元登々庵が書し、石工2人によって14日かけて刻まれたものである。その他の名所としては剣峰(けんがみね)、雲梯山などがある。高台に展望台が設けられているが、そこに至る登山ルートは崩落の危険があるために2015年現在通行禁止となっている。豪渓を通る県道は道幅が狭く自動車の離合も困難なため、豪渓寺の南側の駐車場を利用して徒歩で散策するのが望ましい。岡山県南部地域屈指の紅葉の名所であり、シーズン中の休日は非常に混雑する。豪渓の南端に豪渓寺(ごうけいじ)という小さな寺院がある。山号は天柱山。宗派は真言宗醍醐派。入口に陶器製の狛犬が鎮座している。かつては天柱山一帯に鎖の行場や梯子の行場が設けられ、修行の場となっていた。  (wikipedia・豪渓より)]

『六十余州名所図会 備後 阿武門観音堂』(wikipedia-photo)


[険しい海食崖が続く沼隈半島の南端である阿伏兎岬は奇勝として知られ、岬の突端の断崖に岬の岩頭に建つ朱塗りの観音堂は、その美しさから歌川広重の浮世絵「六十余州名所図会」、川瀬巴水の風景版画などの絵画の題材に多く取り上げられている。また日本を訪れた朝鮮通信使の残した文献などにも紹介されており、近代でも志賀直哉の小説『暗夜行路』にも言及され、今も瀬戸内の自然と調和した見事な景色をつくり出す。現代においても海難除け・安産・子育ての観音として広く信仰を集めており、女性の乳房の形をした絵馬が多数奉納され、また乳房型の護符もある。1934年に近接の鞆の浦と共に、瀬戸内海国立公園として全国で最初に国立公園に指定された地区であり、それを記念して発行された当時の逓信省発行の記念切手にも鞆の浦の仙酔島とともに観音堂の姿が描かれている。
鞆の浦~尾道間に定期運行されている観光クルーズ船から海上からその優美な姿を望むことができる。  (wikipedia・磐台寺より)]

『六十余州名所図会 安藝 厳島 祭禮之圖』(wikipedia-photo)

[安芸国(あきのくに:広島県西部)の厳島神社の大祭に繰り出される「管弦の御船」を描いた図である。「芸州厳島図会」を参考に描いたとされる。現在も、旧暦6月17日には、管弦祭が行われる。
 厳島神社は、ユネスコ世界文化遺産として登録されている。  (「六十余州名所図会 – 東京情報大学」より)]

『大鳥居の図』 – (「厳島図会. 巻之1-10 / 岡田清 編 ; 山野峻峯斎 画」 – 「 1巻 36p 」)

『六十余州名所図会 周防 岩國 錦帯橋』(wikipedia-photo)


[錦帯橋は1673年(延宝元年)に、岩国藩吉川広嘉によって建造されたものである。延宝元年(1673年)6月8日に基礎の鍬入れが始められ、児玉九郎右衛門の設計により、石で積み上げられた橋脚を川の堤防に2個、中間に4個の計6個築き、その上から片持ちの梁をせり出した木造の5連橋を架けた。広嘉は近くに住居を構えて自ら架橋工事の監督を行い、扇子を開いてアーチ橋の湾曲の形を決定したという。同年10月、錦帯橋は完成し、地元で家内睦まじいことで評判の農家清兵衛の一家12人による渡り初めが行われた。しかし、翌年の延宝2年(1674年)、洪水によって石の橋脚が壊れ、木橋も落ちてしまったので、同年、家来に石垣の研究をさせて橋台の敷石を強化し再建した。この改良が功を奏し、その後は昭和期まで250年以上流失することなく定期的に架け替え工事が行われ、その姿を保った。  (wikipedia・錦帯橋より)]

『六十余州名所図会 長門 下の関』(wikipedia-photo)

[長門国(ながとのくに:山口県西部)下関は、西回り廻船の中継港としてにぎわった。図中の船舶は、菱形模様がないことから樽廻船である。江戸末期には、荷待ちの時間が多いなどサービスの悪い菱垣廻船の独占市場がくずれ、即応性の高い樽廻船が主流となってきた。樽廻船へ渡ろうとする遊女を運ぶ小舟が、当時の廻船業の盛況さを示している。  (「六十余州名所図会 – 東京情報大学」より)]
[赤間関に寄港した廻船と、惣嫁船と呼ばれる小船を描いた錦絵。惣嫁とは沖に停泊する廻船に赴いて客をとる遊女で、飯炊きや洗濯などの家事一切までこなしたという。  (「下関市立歴史博物館常設展示図録より、錦絵など – Amebaブログ」より)]