六十余州名所図会(東山道)

『六十余州名所図会 近江 琵琶湖 石山寺』(wikipedia-photo)

[図会は現在の石山寺石山寺東大門の北側門前町にある石山紫の道付近から瀬田の唐橋方向を俯瞰して描かれています。]

カメラ位置は石山寺の門前町にある石山紫の道からのカメラです。

[大津市にある石山寺は、瀬田川を眺望できる伽藍山に開けた花の寺として、また紫式部源氏物語を起筆した地として有名です。その石山寺の表参道を「石山紫の道」とし、源氏物語をはじめ、平安時代や和歌などに由来した植物やモニュメントを配して紫式部の生きた証を後世に伝えます。またこの道が多くの出会いの場となり、参詣道として新たに蘇ることを願っています。
滋賀の素晴らしい景観を称える近江八景の中の一景に、石山寺の月見亭から眺める中秋の名月の美しさを賞賛した「石山秋月」が存在し、かの有名な歌川広重の浮世絵の題材にもなっています。その地において「石山紫の道」は南北に渡り、西の伽藍山、東に瀬田川が流れる風光明媚な場所に位置します。  (「基本構想 – 「石山紫の道」推進計画」より)]

『六十余州名所図会 美濃 養老ノ瀧』(wikipedia-photo)


[養老の滝(ようろうのたき)は、岐阜県養老郡養老町にある木曽川水系に属する落差32m、幅4mの滝である。岐阜県により設置された養老公園内にあり、揖斐関ヶ原養老国定公園に属する。
日本の滝百選及び養老の滝・菊水泉として名水百選に選定されている滝である。また、菊水泉にも伝わる古今著聞集に記載されている、滝の水が酒になったという親孝行の伝説「養老孝子伝説」など故事がある。この地を行幸した元正天皇は「醴泉は、美泉なり。もって老を養うべし。蓋し水の精なればなり。天下に大赦して、霊亀三年を改め養老元年と成すべし」との詔を出し「養老」に改元した。  (wikipedia・養老の滝より)]

『六十余州名所図会 飛騨 籠わたし』(wikipedia-photo)

[蟹寺村(富山市蟹寺)と谷村(飛騨市神岡町谷)の間の宮川に架かる「籠の渡し」は、飛騨街道の難所として知られていました。「斐太後風土記」によれば、川幅十四間四尺(約26・4m)、蟹寺村の崖の高さ四間四尺(約8・4m)、谷村側は四間六寸(約7・4m)ありました。文化12年(1815年)ここを通った僧・野田泉光院(成亮)は日記に「日本一難所渡り也」と記していて、旅人にとっては相当苦労した場所だったようです。一人で渡る旅人もいたそうですが、普通は両岸にいる籠当番の村人に縄を引いてもらっていたそうです。渡し賃は六文ともいわれています。  (「飛騨街道と籠の渡し | GOOD LUCK TOYAMA」より)]
[籠渡し(かごわたし)は、橋を架けることが出来ないまたは許されないために、両岸の間に綱を渡し、その綱に籠を吊り下げ籠に人を乗せ、または物を入れ、対岸に渡すものである。しばしば、この両岸は急流をはさんだ懸崖、絶壁である。歌川広重の「飛騨籠渡図」でも知られる。装置は、対岸に杭を立て、ノブドウのつるで2尺まわりくらいの太縄とし、これを杭に結びつけて両岸に張りかける。 これを命綱といい、猴口藤でまるく四筋立とした籠を、命綱に吊かけ、籠の前後に綱を両岸にひっぱって渡す。 渡る人は、籠の中に立って、柱藤を左右にかいこみ、身体を固めてブランコのように前後にふり動かし、それは籠が、ぶらんぶらんと、命綱にふれるほどである。 このときあらかじめたずさえていた藤蔓輪を前の命綱にかけて、これをたぐれば前進し再びかけ、たぐっては進んでゆくという仕掛けであり、命綱の長さは30間ないし60間である。 綱はたるんでいて、岸からなかばまでは難なく進むが、そこからなかばは高きにのぼるようで、容易なわざではないというが、地元の人は両岸に世話人を置き交通のたよりとしていた。  (wikipedia・籠渡しより)]

橋梁が架かっている場所が籠の渡し跡になります。

『六十余州名所図会 信濃 更科田毎月 鏡臺山』(wikipedia-photo)

[姨捨の里は名月と棚田で古くから名所として知られ、棚田は我が国で始めて文化財指定を受けております。棚田は冠着山(かむりきやま1252m)と三峰山(みつみねさん1131m)などを中心とする聖山高原(ひじりやまこうげん)を背に善光寺平を一望する、標高460mから560mに至り、面積約25ha、千数百枚の棚田が現存しております。「田毎の月」はこの棚田に月が映る様子を表わした言葉として、江戸時代より文学、絵画の題材に取り上げられて来ました。1688年(元禄元年)に松尾芭蕉が当地を訪れ、姨捨の里の風景や事物を描いた絵、書物が世に知れ渡りさらに広く知られるようになった。名勝姨捨の里は長楽寺地区、四十八枚田地区、姪石地区の3箇所に分かれている。それぞれに棚田の古い歴史を刻んでいる。  (「姨捨(おばすて)の里・千曲市 – 信州の旅.com」より)]

『六十余州名所図会 上野 榛名山 雪中』(wikipedia-photo)

[榛名神社・東面堂は江戸時代まで神仏習合の形態をとっていた榛名神社の名残で、当時は岩の中に須弥檀が設けられ千手観音像(秘仏)が安置されていたそうです。歌川広重が描いた「榛名山雪中図」にも東面堂の姿が見えましたが、江戸時時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、現在のような岩に扉を閉めたような姿になったようです。  (「東面堂 – 群馬県:歴史・観光・見所」より)]

行者渓・神橋のカメラです。

『六十余州名所図会 下野 日光山 裏見ノ瀧』(wikipedia-photo)

淵上旭江作『山水奇観』 – 日光山裏見瀑布(「国立公文書館デジタルアーカイブ – 山水奇観」より)


[裏見滝(うらみたき)は栃木県日光市にある滝。「裏見ノ滝」と表記することもある。安良沢国有林の中に位置し、大谷川の支流である荒沢川にある。高さ19m。かつては滝の裏側に設けた道からも姿を見られたので、この名が付けられた。華厳滝霧降の滝とともに日光三名瀑の1つとされる(「奥日光名瀑三滝」は華厳ノ滝・竜頭の滝湯滝とされる)。崖の上半分は板状の輝石安山岩第四紀)、下半分は流紋岩第三紀)からなり、その間に厚さ約2mの赤褐色の集塊岩がある。日光三名瀑の他の2つより規模は小さいが、中央の集塊岩が浸食された所に道を設けて滝を裏側から見ることが可能となっていたため、珍しい存在だった。滝の裏には寛永元年(1624年)に出羽三山から迎えられたという不動明王像が現在もある。松尾芭蕉元禄2年(1689年)に裏見滝を訪れ、滝に関する記述と俳句を奥の細道に残している。1902年(明治35年)に滝上部の岩が崩壊し、裏から見ることができなくなった。  (wikipedia・裏見滝より)]

『六十余州名所図会 陸奥 松島風景 富山眺望之略圖』(wikipedia-photo)

[図会は富山(松島四大観 麗観)からの眺めですので、一番手前の湾は古浦、その上の湾は大浜、その左に月シマ(月島)、星シマ(星島)、白ハマ(白浜島)、白ハマの右上にクノシマ(九ノ島)、小町シマ(小町島)、そこの左上石ハマは浦戸石浜、その左にカゲタシマ(陰田島)と記述されています。]

カメラ位置は九ノ島上空で、カメラ初期設定方向は焼島方向になります。

雪景色の松島 – カメラ位置は福浦島上空になります。

『六十余州名所図会 出羽 最上川 月山遠望』(wikipedia-photo)

[最上川の河口を鳥瞰で描き、遠くに月山を望む図で、実景を写したものではなく、種本をもとに想像で描かれましたが、舟運が盛んだった当時の様子を知ることができます。構図は、川の流れを大きく蛇行させることで画面に奥行きをもたせ、前景の舟を大きく描き遠近感を協調しています。  (「C000175-1961|初代 歌川 広重|六十余州名所図会 出羽最上川月山 …」より)]

カメラ位置は最上川河口付近、出羽大橋でカメラ南方向霞の向こうに月山があります。