六十余州名所図会(東海道-1)

『六十余州名所図会 伊賀 上野』(wikipedia-photo)

[図会は街道左側に上野城が描かれていますので、奈良口になると思います。描かれている川は住古川と思います。木津川とすればこの時代、長田橋は桁橋ではないかと思います。描かれる橋は橋台がしっかりした板橋ですので、木津川支流の住古川と思われ、その先に木戸門が描かれ、その先の辻が鍵屋ノ辻ではないかと想像しています。その先に伊賀上野城が描かれています。]

カメラ位置は旧大和街道で、カメラ北北西方向が鍵屋ノ辻の道標で、カメラ南東方向に伊賀越復讐の石碑があります。

[この道標は、1830年(文政13年)に建てられたものである。道標には「ひだりならみち」「みぎいせ道」とある。それ以前の道しるべが、写真左下にあり「鍵屋辻」とある。
 この鍵屋の辻は、日本三大仇討「伊賀越えの仇討」がおこなわれた所として有名である。1634年(寛永11年)荒木又右衛門の助太刀で、渡辺数馬がかたきの河合又五郎を討ち取り、弟源太夫の仇を討った話である。近くには、数馬茶屋や伊賀越資料館がある。  (「知恵の輪-道しるべ・三重・伊賀上野(鍵屋の辻) – Fureai-cloud」より)]

『六十余州名所図会 伊勢 朝熊山 峠の茶屋』(wikipedia-photo)

朝熊峠 東風屋(とうふや)旅館跡 – カメラ北方向の石柱が二十二町碑です。

朝熊ヶ岳 | 徒然日記 (NO3)

[朝熊山(あさまやま)は、三重県伊勢市鳥羽市にある山。正式名称は朝熊ヶ岳(あさまがたけ)。山頂付近に臨済宗金剛證寺があり、この寺を「朝熊山」と呼ぶ場合もある。朝熊(あさま)は、『延喜太神宮式』などに「朝熊(あさくま)」とあるように「あさくま」が本来の読みであり、音が約され「あさま」となったと考えられる。なお、「あさくま」との読みは伊勢神宮摂社の朝熊神社に残っている。室町時代には神仏習合から伊勢神宮の鬼門にあたる丑寅(北東)に位置する金剛證寺が伊勢信仰と結びつき、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」とされ、入山者が増えることになる。
朝熊岳道
近鉄朝熊駅のある朝熊町から北斜面を登るルート。1970年(昭和45年)の朝熊駅開設後は、登山口近くまで鉄道で移動でき、山頂までの距離が短いので人気がある。宇治岳道と合流する朝熊峠まで約2.4 km。このルートには古い道標(町石)が残されており、朝熊峠まで22町である。利用者が多いせいか、近道の踏み跡が多数あるので注意。二股で迷ったら右を行くのが正式(町石のある)ルート。近畿自然歩道に指定されている。
茶店・とうふや(東風屋)跡
登山方法が徒歩に限られていた時代には、「岳道(たけみち)」と呼ばれる登山道に数多くの茶店があったが、20世紀中にすべての茶店が廃業した。朝熊峠の「とうふ屋(東風屋)」は江戸時代に開業し、最盛期には100畳の大広間を持つ本館と10室以上の客間のある別館を持ち、朝熊山山頂付近唯一の旅館として賑わった。ケーブルカー休止後は茶店として臨時営業していたが、1964年(昭和39年)2月18日に火災で店舗を焼失し廃業した。  (wikipedia・朝熊山より)]

『六十余州名所図会 志摩 日和山 鳥羽湊』(wikipedia-photo)

日和山展望台のカメラです。

[日和山(ひよりやま)は、三重県鳥羽市にある山。鳥羽三山の1つで、山からの眺望は江戸時代より「眼下の浦々島々は庭中の泉水取得るごとく佳景の書中にあるごとし」と讃えられた。鳥羽港(鳥羽湾)を一望することができる。山名は、船頭が天候を日和見するために登ったことから名付けられた。  (wikipedia・日和山_(鳥羽市)より)]

『六十余州名所図会 尾張 津島 天王祭り』(wikipedia-photo)

尾張津島天王祭が行われる天王川公園のカメラです。

[尾張津島天王祭(おわりつしまてんのうまつり)は、愛知県津島市愛西市に伝わる津島神社の祭。600有余年の歴史を持つ荘厳・華麗な川祭りである。
祭は数か月にわたり様々な行事、儀式、神事が行われるが、7月第4土曜日の「宵祭」とその翌日に行われる「朝祭」(元はそれぞれ旧暦の6月14日と15日に行われていた)がクライマックスであり、「尾張津島天王祭の車楽舟行事」として重要無形民俗文化財に指定されている。2016年(平成28年)12月1日には、「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産に登録された。
宵祭は、500個余りの提灯をまとった巻藁舟が、津島笛を奏でながらゆうゆうと天王川公園の「丸池」を漕ぎ渡り、揺らめく提灯が川面に映りその美しさを際立たせ、朝祭には津島の5艘に愛西市佐屋地区の「市江車」が先頭に加わり 6艘の車楽船が能人形(能の演目の衣装をまとった人形)を飾り楽を奏でながら漕ぎ進む。市江車からは10人の若者が締め込み姿で天王川に飛び込み、布鉾を持って泳ぎ渡り神前に奉納するため走る姿は勇壮である。  (wikipedia・尾張津島天王祭より)]

『六十余州名所図会 三河 鳳来寺 山巖』(wikipedia-photo)

[図会中央に仁王門、そこから先に 1,425 段あると言われる石段が描かれています。]

鳳来寺参道口のカメラで、参道に石段が見られます。

鳳来寺仁王門前のカメラです。

[鳳来寺(ほうらいじ)は、愛知県新城市鳳来寺山の山頂付近にある真言宗五智教団の寺院。本尊開山の利修作とされる薬師如来。参道の石段の数が 1,425 段あり、徳川家光によって建てられた鳳来山東照宮神仏分離以降は神社として独立)及び仁王門は国の重要文化財に指定されている。
大正3年(1914年)に本堂を焼失したが、昭和49年(1974年)に再建された。なお、明治初期まで存在した諸僧坊も度重なる火災と明治以降の窮乏で廃絶となり、今では松高院と医王院のわずか2院の堂宇のみが現存する(松高院には山門あり)。廃絶の諸僧坊跡地には石碑が立てられている。