『六十余州名所図会 遠江 浜名之湖 堀江館山寺 引佐之細江』(wikipedia-photo)
[図会を見ると舘山寺があると思われる小山の下に砂洲(陸繋(りくけい)島)が描かれています、この地は現在の舘山寺温泉になり、砂洲の右が内海、左が浜名湖、内海の上方向が細江湖 (引佐細江)方向になります。]
舘山展望台上空からの鳥瞰カメラで、カメラ初期設定方向、浜名湖橋の向こうが細江湖 (引佐細江)で、カメラ右方向が内浦になります。
『六十余州名所図会 駿河 三保のまつ原』(wikipedia-photo)
三保の松原上空の鳥瞰カメラです。
『六十余州名所図会 甲斐 さるはし』(wikipedia-photo)
淵上旭江作『山水奇観』 – 甲斐猿橋(「国立公文書館デジタルアーカイブ – 山水奇観」より)
[江戸時代には「日本三奇橋」の一つとしても知られ、甲州街道に架かる重要な橋であった。猿橋は現在では人道橋で、上流と下流にそれぞれ山梨県道505号小和田猿橋線と国道20号で同名の新猿橋がある。長さ30.9メートル、幅3.3メートル。水面からの高さ31メートル。深い谷間のために橋脚はなく、鋭くそびえたつ両岸から四層に重ねられた「刎木(はねぎ)」とよばれる支え木をせり出し、橋を支えている。
刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。猿橋では、斜めに出た刎ね木や横の柱の上に屋根を付けて雨による腐食から保護した。 (wikipedia・猿橋より)]
『六十余州名所図会 伊豆 修禅寺 湯治場』(wikipedia-photo)
[修善寺温泉(しゅぜんじおんせん)は、静岡県伊豆市修善寺にあり、伊豆半島で最も歴史がある温泉。日本百名湯に選ばれている。
温泉街の中心に修善寺川(通称:桂川)が流れ、河岸には温泉宿や飲食店が建ち並ぶ。川中の四阿には、同温泉地のシンボル的存在の独鈷の湯がある。
修善寺温泉の歴史は、平安時代に弘法大師(空海)が開いたという修禅寺の歴史とともにある。川原で病気の父親の体を洗う少年のために「弘法大師が独鈷を用いて岩を砕き、そこから湯が湧出した」との開湯の伝説が残る。 (wikipedia・修善寺温泉より)]
[独鈷の湯(とっこのゆ)は、温泉地区を流れる修善寺川の川中にあり、土台の岩や大きな石を組んで浴槽をかさ上げし、湯を楽しめるようになっている。かつては入浴することができたが、現在は法律上の浴場としての位置付けではないため禁止されている。独鈷の湯は、川中に突き出たその形状のために、豪雨の際に流れが阻害され、氾濫を引き起こす原因となりかねないとして、県の計画により、2009年4月に19m下流の川幅の広い位置に移動させられた。 (wikipedia・独鈷の湯より)]
『六十余州名所図会 相摸 江之嶋 岩屋ノ口』(wikipedia-photo)
[四囲を海蝕崖に囲まれた険阻な地形や海蝕洞「岩屋」の存在は、古来宗教的な修行の場として江の島を特色づけてきた。奈良時代には役小角が、平安時代には空海・円仁が、鎌倉時代には良信(慈悲上人)、一遍が、江戸時代には木喰が参篭して修行に励んだと伝えられている。寿永元年(1182年)に源頼朝の祈願により文覚が弁才天を勧請し、頼朝が鳥居を奉納したことをきっかけに、代々の将軍や御家人が参拝したといわれる。鎌倉時代以後も、その時々の為政者から聖域として保護され、参詣されてきた。弁才天は水の神という性格を有し、歌舞音曲の守護神とされたため、歌舞伎役者や音楽家なども数多く参拝した。ことに音曲に関連する職業に多い視覚障害者の参拝も見られ、中でも関東総検校となる杉山和一の存在は特筆すべきである。参拝者のための宿坊も門前に軒を連ね、関東一円に出開帳を行うなどの活動も見られた。宿坊の中でも岩本院(江嶋寺=こうとうじとも呼ばれた)は有名で、現在の旅館「岩本楼」の前身にあたる。 (wikipedia・江の島#修行の島から参詣地へより)]
江の島岩屋のストリートビューです。