六十余州名所図会(東海道-3)

『六十余州名所図会 武藏 隅田川 雪の朝』(wikipedia-photo)

[図会下に山谷堀今戸橋、その右に待乳山 本龍院(待乳山聖天)、左には玉庄又は金波楼が描かれています。図会上に隅田川、対岸の向島が描かれています。向島には山谷堀からは竹屋の渡しを利用しています。]

山谷堀水門跡前からの隅田川です。

『六十余州名所図会 江戸 浅草市』(wikipedia-photo)

[毎年12月17~19の3日間は、浅草寺の羽子板市。この市のルーツは、江戸時代に成立した正月用品を商う「歳(とし)の市」にあります。
当時、江戸では各所で定期市が開かれていましたが、なかでも賑わったのが年末の「歳の市」。江戸中期まで、歳の市がたつのは浅草に限られ、納めの観音詣にあたる師走の17・18日に開かれていました。小屋掛けの店が浅草寺境内から蔵前、浅草橋、上野山下あたりまで軒を並べたといいますから、大きな規模だったようです。
ところが、この市に買い物に出かけたのは、なんと男だけでした。武家や大店の主人が家来や奉公人を引き連れて繰り出し、毎年決まった店で買い物をし、帰りには料理屋に寄って威勢をつけて帰る――それが江戸っ子の「粋」だったのです。
江戸時代も後期になると、浅草の市のあと神田明神深川八幡などにも歳の市がたつようになり、女性も出かけるようになりました。しかし、次第に一般の店でもお正月用品を売るようになると、歳の市はすたれ、浅草の市も江戸時代中期から庶民の間に流行し始めた羽子板を売る市へと変わっていきました。今に伝わる「羽子板市」の始まりです。  (「江戸の歳時記|12月 羽子板市 | 老舗:東都のれん会:東京」より)]

『六十余州名所図会 安房 小湊 内浦』(wikipedia-photo)

[承久元年(1222)2月16日が日蓮聖人が安房の小湊に生まれました。小湊には日蓮聖人生誕にゆかりの誕生寺があります。1276年の建立時はもっと海沿いにあったが、二度の地震と津波で水没し、現在の場所に移築され、再興されたということです。集落奥の大きな建物が誕生寺でしょうか。三方を山に囲まれた小湊の様子を、広重ならではの穏やかな風情で描いた図となっています。訪れる旅人も多く、手前の峠に誕生寺詣での姿も見られます。  (「今週の六十余州 その30「18. 安房 小湊 内浦」 – livedoor」より)]

誕生寺境内のカメラです。

『六十余州名所図会 上総 矢さしヶ浦 通名九十九里』(wikipedia-photo)

[上総国(かずさのくに:千葉県中央部)の九十九里浜には、200統余りの網数があったとの報告もある。一統の網は、船方として五、六十名、岡者として約100名の労働者から構成される。主に、イワシを捕獲し、食料に供するよりも、干鰯(ほしか)あるいは〆粕(しめかす)として、農業の肥料として供給されていた。イワシ漁の豊凶に左右されていたと言われ、気候変動を体感していたと考えられる。  (「六十余州名所図会 – 東京情報大学」より)]
[九十九里の古名は玉浦(玉の浦)である。九十九里の地名の起源は、石橋山の戦いに敗れ房総に逃れた源頼朝が、家臣に命じ太東岬から1里ごとに矢を立て、99本目で刑部岬に達したという伝承から、「九十九里」と言われるようになったとされ、中央とされる山武市蓮沼には箭挿(やさし)神社がある。またその故事に因んで、「矢指ヶ浦」とも呼ばれる。  (wikipedia・九十九里浜より)]

九十九里地引網発祥の地碑前のカメラです。

[大地引網は九十九里浜が有名である。九十九里浜の地引き網の歴史は、弘治元年(1555年)に紀州の漁師西之宮久助が剃金村(現在の千葉県白子町)に漂着し、紀州漁法である地引き網を伝えたことに始まるとされている。伝えられた地引き網は片手廻しの小地引網であるが、遠浅で海底に岩が隠れていない九十九里浜は、網を引いても破れるおそれがないので、大規模な地引き網に適していた。2艘の網船が沖合いで袋網を中央にして網を連結し、左右に別れ両側に投網する両手廻しの大地引網は、寛永年間(1624年-1658年)に一宮本郷村(現在の千葉県一宮町)の片岡源右衛門が工夫したもので、その規模は網の長さ片側300間、中央部に30〜40間の大袋網が付き、水主60〜70人、岡者200人とされる。九十九里浜の地引き網によるイワシ漁は佐藤信季の「漁村維持法」に、「予あまねく四海を遊歴して地曳網に働く者を見ること多し、然れども諸国の漁事、九十九里の地曵に如くものあることなし」と評され、網数は200余張に達していた。
大規模な地引き網は多くの資金と労働力を必要とし、豊漁であれば一攫千金も夢ではないが常に漁があるわけではないので、背後に穀倉地帯である九十九里平野がひかえ豊富な資金力と必要時のみ動員できる労働力などの社会的条件が背景にある九十九里浜で特に発展した。  (wikipedia・地引き網より)]

『六十余州名所図会 下総 銚子の濱 外浦』(wikipedia-photo)

[「下総 銚子の浜 外浦」は、下総の代表的な名所であった銚子での磯遊びの様子を描いたものです。
「外浦」は、現在の銚子市南東部の外川(とかわ)地区の一画で、当時の地元での呼び方と思われます。手前の砂浜が外川の浜で、中央左手の巨大な岩は千騎ヶ岩(せんきがいわ)と呼ばれる奇岩です。また、右手中ほどの断崖絶壁が屏風ヶ浦で、全長約10キロに及ぶ断崖ですが、ここではその西端の刑部岬(ぎょうぶみさき)が描かれています。水平線上には房総半島がかすかに浮かび、その向こうには富士山も見えます。
このように見える風景は本来はありませんが、外川の浜で見ることのできる名勝が、一図の中に凝縮されています。  (「六十余州名所図会下総 銚子の浜 外浦 – 千葉の県立博物館」より)]

屏風ケ浦(水郷筑波国定公園 銚子ジオパーク)の鳥瞰カメラです。

『六十余州名所図会 常陸 鹿嶋太神宮』(wikipedia-photo)

鹿島神社西の一の鳥居上空の鳥瞰カメラです。

[鹿島神宮の一の鳥居は古くは東西南北に4基があったが、現在は東西南の3基である。西の一の鳥居は北浦湖畔の鹿嶋市大船津にあり、鰐川の中にある。古くから大船津は神宮参拝者の船着場であったため、神宮の門前町もこちらの西方側に広がっている。中世にこれらの町が形成される以前は、大船津の津東西社から舟で御手洗池まで進み、そこで潔斎して参宮したと考えられている。現在の鳥居は平成25年(2013年)6月の再建で、昭和期に堤防整備により水上から陸上に移っていたが、平成26年(2014年)の御船祭に向けて改めて水上に建て替えられたものである。この鳥居は川底からの高さ18.5メートル、幅22.5メートルという大規模なもので水上鳥居としては日本最大級である。御船祭の際にはここから御座船が出発する。  (wikipedia・鹿島神宮#参道より)]