六十余州名所図会(西海道)

『六十余州名所図会 筑前 筥崎 海中の道』(wikipedia-photo)

[筑前国(ちくぜんのくに:福岡県西部)の玄海灘に突き出た志賀島から「海ノ中道」を望み、筥崎八幡宮門前町、西公園、能古島を望む。「海ノ中道」の左側は玄海灘で、荒れた海を表す。右側の博多湾は穏やかな海面として描かれている。歌川広重は、博多までは出かけておらず、渕上旭江の「山水奇観」を題材にしたと考えられている。  (「六十余州名所図会 – 東京情報大学」より)]

淵上旭江作『山水奇観』 – 筑前筥崎(「国立公文書館デジタルアーカイブ – 山水奇観」より)

『六十余州名所図会 筑後 簗瀬』(wikipedia-photo)

[筑後(ちくご)の国は現在の福岡県南西部にあたる。筑後川熊本大分・福岡・佐賀の4県を流れる九州第一の川で、日本三大暴れ川のひとつとして筑紫次郎と呼ばれることもある。この川の名産は古来から鮎が知られ、上流から中流にかけて漁場となった。この図で描かれているのは北岸(筑前側)の杷木町林田と南岸(筑後川)の浮羽町大石に挟まれたあたりです。筑後側では川をせき止め梁(やな)をかけて鮎をとるので簗瀬(やなせ)と呼ぶ。一方、筑前側では竹や木で川に簀子(すのこ)を立て網を打つ方法をとるので、網渡瀬と呼んでいた。現在でも簗瀬による鮎漁は続けられています。  (「今週の六十余州 その7「60. 筑後 簗瀬」 : 和美三昧blog – livedoor」より)]
[2つに分断されたこの奇妙な川は、現在の福岡県にあたる筑後の筑後川。川の左側に建てられているのは簗瀬(やなせ)という罠で、鮎を追い込む漁が行われた。川の右側は漁の邪魔をしない為に整備された舟の通路となっていたという。  (「広重 / 六十余州名所図会 筑後 簗瀬 | 神保町 | Gallery Soumei-do」より)]

淵上旭江作『山水奇観』 – 筑後簗瀬(「国立公文書館デジタルアーカイブ – 山水奇観」より)

日本山海名物図会」(巻の五 – 3ページ・八月枯鮎)

大石堰のカメラです。

[大石堰は、五人の庄屋の発願よって筑後川左岸に江戸期に開削されました。これによって、肥沃な大地が生まれ、久留米有馬藩領の水田石高は増大しました。現在もその恩恵を受け、うきはの農産業を支えています。大石水道のほとりには、五庄屋の偉業を称えた三堰の碑(さんえんのひ)があり、「筑後川は諸志に著はれ実に天下の大水なり」と碑の冒頭に記されています。
●大石堰の歴史 ~五庄屋の灌漑工事の偉業
江戸初期の浮羽地方は、筑後川の沿岸にありながら土地が高く水利が極めて不便なところで水田にすることができませんでした。栗林次兵衛・本松平右衛門・山下助左衛門・重富平左衛門・猪山作之丞の五人の庄屋は、筑後川の水をこの大石から水道へ引き入れ送水して下流域を水田化しようと決心。寛文三年(1663)9月にこの計画を久留米藩に提出しました。しかしながら、あまりの大事業であり、水路筋にあたる11カ村から「大石村から水路を開削して導水すれば、洪水時に導水路にあたる村は多大な被害を受ける」と反対運動にあいます。五人の庄屋は、自分たちの計画を貫く為の決意表明として誓詞血判を行い、「計画通り工事をしても損害はない。万一損害があれば、極刑に処されても異存無し」と主張し、同年12月、郡奉行や村人らに灌漑工事を認めさせました。
寛文四年(1664)1月、藩営事業として工事が始められ3月中旬に開通。翌年寛文5年に溝幅が拡張され、続いて6年、7年と拡張工事が実施されました。更に灌漑面積を拡大するため、延宝2年(1674)難工事の末、大石堰が完成しました。その後、大石長野水道は農民の永年の苦労と努力に支えられ、今も下流域一帯、約30平方キロに及ぶ水田地帯を潤しています。
江戸時代に作られた大石の堰は、昭和28年(1953年)6月に西日本を襲った大水害の際、甚大な被害を受け破損しました。
旧大石堰見取図

現在の大石堰
昭和28年(1953年)筑後川大洪水のため大石堰が破損 崩壊する その後、新しく現在の大石堰が完成し、下流域の広大な美田、穀倉地帯が維持されて 現在に至っているます。 工期 昭和29年~31年、工事費 3億4千万円で完成。  (「筑後川うきは 五庄屋物語」より)]

『六十余州名所図会 豊前 羅漢寺 下道』(wikipedia-photo)

[曹洞宗の僧禅海が豊後国羅漢寺を参詣した時、川沿いの断崖にかけられた桟橋、青野渡が危険で、人馬のしばしば覆没することを知り、これを哀れみ、鑿道の誓願を発し、陸道の掘削を思いついた。1730年(享保15年)頃、豊前国中津藩主の許可を得て掘削を始めたが、その後周辺の村民や九州諸藩の領主の援助を得て30年余りの歳月をかけて、1763年(宝暦13年)に完成させた。高さ2丈、径3丈、長さ308歩。
1750年(寛延3年)の第1期工事の完成後には、通行人から人4文、牛馬8文の通行料を徴収したという話が伝わっており、この洞門は日本最古の有料道路ともいわれている。
1854年(安政元年)から1856年(安政3年)にかけて制作された歌川広重の『六十余州名所図会』には、「豊前 羅漢寺 下道」と題し、この洞門が豊前国の名所として描かれている。  (wikipedia・青の洞門より)]

青の洞門対岸からのカメラです。

『六十余州名所図会 豊後 簑崎』(wikipedia-photo)

[住吉浜(すみよしはま)は、大分県杵築市にある海岸。別府湾の北側、国東半島の付け根近くに位置する守江湾の東側にあり、湾を取り囲むように弧を描いて南西に突き出す天然の砂嘴(さし)で、三方を海に囲まれている。京都府宮津市天橋立に擬して豊後天ノ橋立とも呼ばれ、江戸時代後期には歌川広重(安藤広重)の『六十余州名所図会』の「蓑崎」にも描かれた古くからの景勝地である。また、北側に位置する奈多海岸と合わせ、「奈多・住吉海岸」として大分百景に選ばれている。  (wikipedia・住吉浜より)]

『六十余州名所図会 肥前 長嵜 稲佐山』(wikipedia-photo)

[中景には淵神社などが描かれている。  (「ファイル:Nagasaki Hiroshige Inasa.jpg」概要より)]

「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」に描かれる長崎」にリンク

肥前長嵜圖(「国際日本文化研究センター – 肥前長嵜圖」より)
地図左上に稲佐嶽と記述され、絵図中央にホウガサキ(鵬ヶ崎)、右端万福寺左の弁財天が淵神社になります。

「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」に描かれる肥前伊万里焼」にリンク

『六十余州名所図会 肥後 五ヶの庒』(wikipedia-photo)

北斎漫画. 7編」(コマ番号10/34・肥後 五ヶの庒)

[五家荘、五家庄(ごかのしょう)は、熊本県八代市(かつての肥後国八代郡)東部の久連子(くれこ)・椎原(しいばる)・仁田尾・葉木・樅木の5地域の総称。九州山地の西部、川辺川の水源の山林地域である。古来より秘境として知られ、人々は河岸の段丘や傾斜斜面などに小さな集落を作り、木地師として木器を製造したり、蕎麦・稗などの焼畑農業や茶の栽培に携わったりしてきた。ただし、秘境というのはイメージ的な部分が大きく、中世以後隣接する柿迫村をはじめとする外部との交流が盛んであったことは五家荘の外部に伝わる古文書から知られている(反対に内部の文書は焼畑や山火事などによる類焼で原本を失ったものが多い)。
平家の落人の伝説で知られ、伝承によれば平清経壇ノ浦の戦いの後に伊予国今治に落ち延び、阿波国祖谷を経て、伊予国八幡浜から九州に渡ったという。この伝承によると清経一行は豊後国の緒方家を頼ったとされ、姓を「緒方」に改め、その後は五家庄にある五つの地域のうち清経の長男の盛行が椎原、次男の近盛が久連子、三男の実明が葉木に移り住んだという(伝承中の一説)。  (wikipedia・五家庄より)]

樅木の吊橋

『六十余州名所図会 日向 油津ノ湊 飫肥大嶌』(wikipedia-photo)

[油津港(あぶらつこう)は、宮崎県日南市にある太平洋に面した港湾。古くは油之津(あぶらのつ)とも呼ばれていた。南東に開けた入り江であり東側に大節鼻(尾伏ノ鼻)と呼ばれる岬が伸び、南方海上に小場島と大島(日向大島)が並ぶ。
南蛮貿易における寄港地の一つであり、当時ポルトガル人が使用していた海図にも記載されている。文禄の役では伊東氏の拠点港として利用された。江戸時代に入ると油津港は伊東氏飫肥藩領となり、南蛮貿易は終息したが代わって需要が高まった木材(飫肥杉)の積出港となった。木材運搬のために北方を流れる広渡川と油津港とを結ぶ堀川運河が伊東氏飫肥藩によって掘削され、1686年(貞享3年)に完成している。油津港の北に広がる日向灘は当時の海上交通における難所であり、風見(天候調査)のための長期滞在者が多く港町として賑わいと繁栄を見せた。歌川広重の名所絵『六十餘州名所圖會』に「日向油津ノ湊飫肥大島」として描かれている。  (wikipedia・油津港より)]

『六十余州名所図会 大隅 さくらしま』(wikipedia-photo)

[桜島

桜島(さくらじま)は、日本の九州南部、鹿児島県鹿児島湾(錦江湾)にある東西約12km、南北約10 km、周囲約55 km、面積約77km2の火山。かつては名前の通り島であったが、1914年(大正3年)に発生した大正大噴火により、対岸の大隅半島と陸続きになった。桜島の大部分を構成する御岳は南北に並ぶ北岳、中岳、南岳から成り、山腹に多くの側火山を配する。これらを総称して御岳(おんたけ)と呼ばれる。山裾が海まで伸びているため平地はほとんどないが、北西部と南西部の海岸沿いに比較的なだらかな斜面があり、農地として利用されている。  (wikipedia・桜島より)]

『六十余州名所図会 薩摩 坊ノ浦 雙劍石』(wikipedia-photo)

[薩摩国(さつまのくに:鹿児島)の坊津(ぼうのつ:現在の南さつま市)沖合の坊の浦と奇岩石の眺望である。「山水奇観」の「薩摩坊津」の挿絵を原画としている。坊津は、薩摩半島の南西端に位置し、東シナ海を一望する岬の一部である。江戸時代には、島津藩の密貿易の拠点であった。  (「六十余州名所図会 – 東京情報大学」より)]

[双剣石

穏やかな波間に対峙するように、天へ向かって剣のようにそびえ立つ2つの岩「双剣石」。岩それぞれの高さが27mと21mあります。
双剣石の一帯は、その景観に加え歴史や文化的背景が評価され、国の名勝「坊津」として指定され、坊津歴史資料センター輝津館の展望所からの景色は、南さつま海道八景にも選ばれています。
浮世絵で有名な歌川(安藤)広重が画題に用いるなど、江戸時代から著名な地で、周辺の網代浜で行われる漁の様子は、遠方から見物客が訪れるなど、漁業観光のはしりであったといわれています。  (「双剣石 – 南さつま市観光協会」より)]

『六十余州名所図会 壹岐 志作』(wikipedia-photo)

[これが壱岐を描いたという「六十余州名所図会 壱岐志作」(安政3年)。六十余州名所図会は七道六十八国の勝景・奇景を描いた六十九図からなる揃い物。後の大作「名所江戸百景」につなげた。「壱岐志作」は、長崎県北松浦半島の志佐辺りから、伊万里湾壱岐水道を経て、壱岐の島を遠望した図といわれる。『北斎漫画』七編「壱岐志作」からの転用と指摘されるが、広重は雪景に描き変えている。元々、広重は各地の風景画を数多く描いたが、実際に訪れて描いたものは少なく、各地の名所図会を参考にアレンジしたものが多い。この「壱岐志作」も、この地がそれほどの豪雪地帯ではないので、違和感を感じさせる。  (「一支博:広重展、原の辻ガイダンス – hantubojinusi’s diary」より)]

北斎漫画. 7編」(コマ番号18/34・壱岐志作)

『六十余州名所図会 對馬 海岸 夕晴』(wikipedia-photo)

[對馬国(つしまのくに:長崎県の一部)の浅茅(あそう)湾を題材とした景観図である。浅茅湾は溺れ谷と呼ばれる地形の陥没によりできた入江であり、対馬第一の景勝地である。現在は、浅茅湾の高台に対馬空港が設置され、長崎、福岡との定期便により結ばれている。松浦半島まで90km、朝鮮半島まで60km。  (「六十余州名所図会 – 東京情報大学」より)]

烏帽子岳から望む浅茅湾(wikipedia-photo)