一乗院平等寺

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[膝折地区・一乗院
並流山一乗院平等寺といい、宗旨は真言宗智山派で、本尊十一面観音である。近世においては石神井三寶寺の末寺であったが、現在では京都大本山智積院の直末となっている。由緒等は詳らかでないが、『風土記稿』によれば並流山観音寺、一名を平等寺とするとあり、口碑に従うと断ったうえで、開基は膝折地区を開いた高麗氏であるとしている。また、寺伝によれば、高麗氏の城が陥落した際、五名の家臣が膝折へ落ち延びて来て住むようになり、膝折を開いたとし、と同時に乱世が平和に立ち返らんことと、人々の後生と菩提とを祈念して、一宇を建立したともある。そして、本尊として十一面観音を都より勧請したことから観音寺と称したといい、その後は南北朝の初期に宇治醍醐山の尊師によって本堂が建てられたとも伝えている。具体的な創建年については、文和年間(一三五二~五六)頃からの板碑が多数出土していることや、『朝霞市史通史編』でも「元弘年間(一三三一~三三)までは遡らない」としていることなどから、今のところ南北朝期とするのが適当かと思われる。
古くは本堂左手に大日堂、右手に地蔵堂を配し、豊臣秀吉の命によって稲荷社を設けていたともいう。そして、少なくとも近世に入ってからは本堂は一度、本尊ともども焼失を受け、さらに安政年間(一八五四~五九)にも火災に見舞われ、客殿・大日堂を失ったとされている。そして、この折、新たに本尊を造顕し、客殿を再建した。現在ある本堂は、焼失後に再建したのを解体し、やや北側へ移建したもので、昭和三十九年竣工によっている。また、庫裡は昭和二年に増築をみ、昭和五十五年に現状のように完成した。一方、西方には下寺とも呼んだ持明院を有していた。持明院については、『風土記稿』にもその記載があるが、正式には瑠璃光山持明院といい、本尊は坐像の薬師如来であった。ただし。その由緒等はまったく詳らかでない。持明院は早くから衰退し、当寺の兼務するところとなっていたようである。なお、明治になってからは、第一小学校の前身である膝折小学校が置かれ、旧役場としても使われていた時代がある。(「朝霞市史」より)  (「一乗院。朝霞市膝折にある真言宗智山派寺院 – 猫の足あと」より)]

一乗院 – Google Map 画像リンク

カメラ北北東方向が一乗院平等寺山門です。

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