仙波浅間神社

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[仙波浅間神社鎮座地周辺には古墳であると伝わる小山が点在し、塚と呼ばれていたが開発に伴い崩されてしまったものが多い。
特に東上線敷設のため崩された鹿見塚などは、万葉集巻一四「武蔵野に占へ肩焼き、真実にも告らぬ君が名、占に出にけり」と歌われた所であった。
当社はこの塚群中の母塚と呼ばれる古墳上に鎮座して、国道を隔てた愛宕神社のある父塚と対を成すものという。山岳信仰に二岳を崇めるものがあるが、母塚山に女神である木花咲耶姫命を祭神とする浅間神社が祀られたこともこのような背景が考えられる。
社記によると、当社は康平年中、源頼義奥州征伐の途次に分霊したことに始まり、長禄元年に太田道灌が再営し、永禄九年に北条氏家の臣中山角四郎が再興したという。
江戸中期になると関東一円に浅間信仰が起こり、富士登拝が盛んになり、多くの先達が活躍した。当地の先達は正保年間に小野与左衛門であったことが石碑に残されている。正保年間から子育ての信仰が起こり、川越城下をはじめ近郷から厚い信仰があり、これは今日にまで及んでいる。本殿は富士山頂を模した石室様で、正保四年の再建と伝える。大正一二年の震災により倒壊し、まもなく再建されている。(「埼玉の神社」より)  (「仙波浅間神社。川越市富士見町の神社 – 猫の足あと」より)]

万葉占肩の鹿見塚
[万葉集巻十四は全巻東歌(あずまうた)だから、埼玉で詠まれたと思われるものが、いく処にも出てくる。
 武蔵野の占(うら)へかたやきまさでにも告(の)らぬ君が名占に出にけり (三三七四)
――武蔵野で鹿の肩骨を焼いて占ったが、まことにには打ちあけもしないのに、愛していることが占に出てしまいました―東国処女はこう嘆く。
 万葉では、君とは、相聞の場合、女から男へむかって呼んだ例が多い。古来、占には亀ト(きぼく)鹿トなどあった。ここでは、鹿ト。鹿の肩の骨を焼いて、裏面にできる裂け目によって占った。人には告げ得ぬ相手の名が、人目に立ってしまった。恐らく母にも告げない心持――と私注で土屋文明はいう。
 このころ、妻問婚(つまどいこん)である。子は母と同居。成長しても同じだから、妙齢の娘は、母の厳しい監督下にある。戸主やその他の戸内でも恵まれた人たちだけが、妻を自分の家に迎えられた。だから、普通は夫婦同居は望めない。愛するもの同志は、ひそかに逢って制約をかこつばかりである。
 恋は、障害の中でこそ、激しく燃焼する。相逢う束の間の歓喜は大きい。東国相聞歌の生活背景は、ふつう、物言う牛馬の生活である。激しい労働と、貧困。人間らしさを感ずるのは、恋愛の時だけではなかったか。
 だから、自由な解放的と称する、現代紳士淑女の恋愛百態の中にあの激しさを見い出すことはない。だが、どちらが、魅力的だろうか。
 万葉時代、彼らは、武蔵野に群棲した鹿を狩猟した。食用。毛皮は衣類。骨は器具、卜占用にしていた。その鹿狩りの時、鹿の群れを発見する物見台が鹿見(ししみ)塚、という。「鹿」を「シシ」というのは狩りの場合。「シシ」とは肉の意である。それ以外、万葉集では、カ、シカ、サヲシカなどと詠んだ。
 だから、鹿狩りが行なわれ、鹿見塚の望まれる所に住む、娘の歌ということになる。でも、武蔵野はもともとそういうところなのだから、どこにでもあてはまりそうな気がする。ただ、現在いわれている武蔵野と、あの当時の武蔵野とは、範囲の規模が違う。――それは、国府の所在から考えても、府中市から狭山丘陵へかけてを中心とする一帯であろう。――田辺幸雄の学説である。  
 この東歌の誕生の地は、ここであるという碑が、川越市富士見町に建っている。東上線と川越線に川越街道(254号)が交差するあたり、東方に小高い丘がある。古墳である。頂上に浅間神社をまつり母塚と、いう。
 2メートルほどの仙台石に、「埼玉県指定史蹟、万葉遺蹟、占肩之鹿見塚」と大書刻字されている。元知事、大沢雄一の筆による。
 建碑の由来を碑陰に記している。
――前略――往古東国の人々が、武蔵野に棲んでいた多くの鹿を狩して、その肩骨を焼いて吉凶を占う風習があった。この故事から情緒深い占肩の歌が遺され、地名をシシミ塚と称していた。然るにいつしかシロミと転訛して城見塚と書改められたこともあったが、今もシシミ塚として一町七畝余もある。また新編武蔵風土記にも遺跡としてその小名が地籍に記されている。この地には上代の古墳が遺存し、父塚、母塚と呼ばれ、母塚の丘陵上には、富士浅間神社を祀り――後略――
柴田常恵、小川元吉、岸伝平三氏の調査によって、昭和二十一年に県指定史蹟となったとつけ加える。ただ、これだけでは、母塚そのものが鹿見塚と誤解される、と郷土史家の岡村一郎氏はいう。
 街道の西側で線路に接しているあたりに、東西五十間に及ぶ一大古墳があった。ただいつ頃か取り崩されてしまった。当時の調査書では、これが本当の鹿見塚だという。――鹿見塚の真の所在地が忘れられることを恐れるのである。この場合重要なことは万葉集の歌と関連があるなしではなく、これだけ大きな古墳があったということ自体が、川越地方の古墳の分布状態を考えるうえに学術的価値をもっていることである――と書いている。だから、その旨を記載すべきだとつけ加える。
 「かたやき」は鹿トである。と考えてくれば鹿見塚のあるところが、発祥地の候補にはなるが、契沖の代匠記のいう「カタヤクト云ハ亀ヲ焼ナリ」となると、全く事情が違ってくる。諸説のわかれるところだ。この歌も、個人の感動から詠われ、やがて農耕歌謡――大勢で歌われる民謡へと発展していったものであろう。
 母塚に登る。雑然とした川越の街路は、ただただ車の洪水を見せるだけである。  (「川越の歌と文学(4) – DTI」より)]

仙波浅間神社 – Google Map 画像リンク」「占肩の鹿見塚 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向が仙波浅間神社参道です。カメラ方向左富士見町公民館右に「埼玉県指定史蹟、万葉遺蹟、占肩之鹿見塚」碑があります。

カメラ北北東方向が仙波浅間神社参道です。

仙波浅間神社拝殿前のカメラです。

本殿は富士山頂を模した石室で、石室前に富士山の噴火口を模した窪みがあります。

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