中田宿(なかだしゅく、なかだじゅく)は、江戸時代の日光街道(日光道中)および奥州街道(奥州道中)における下総国の宿場。日光・奥州街道の江戸・日本橋から数えて8番目の宿場であるが、利根川対岸の栗橋宿は合宿の形態をとっており、両宿合わせて一宿とする記述も有る。現在は茨城県古河市中田地先の利根川河川敷に相当する(現在の中田地区の街並は、後述の河川改修によって移転したものである)。
古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つである。南(江戸側)から順に、下町(下宿)・仲町(仲宿)・上町(上宿)、および船戸町から構成された。天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣・脇本陣は1軒ずつ設けられ、旅籠が6軒(大0、中0、小6)あった。宿内の家数は69軒、人口は403人であった。利根川の河畔にあり、対岸の栗橋宿との間を渡船が結んだ。なお、前述の通り両方を合わせて、栗橋・中田宿と呼ばれ、1つの宿駅とされた。
1912年(大正元年)、利根川改修工事により宿場地が河川敷になるため、町の大半が川から離れた日光街道・中田松原(現在の中田地区の中心集落)に移転を始めた。このときの河川改修工事は1930年(昭和5年)に竣工したが、その後も洪水は頻発したため、追加工事が行われることになり、昭和20年代に残された上町(上宿)もすべて移転した。 (wikipedia・栗橋宿より)]
絵地図初期画面に「中田宿」と記述され、その下鈍角地角下に顯正寺と読める参道左に中田一里塚が描かれているように思える。絵地図を右にスクロールすると利根川対岸に「栗橋宿」の渡し場、「栗橋関所」が描かれています。