日光道中分間延絵図(千住宿)

千住宿(せんじゅしゅく、せんじゅじゅく)は日光街道(正式には日光道中)および奥州街道(正式には奥州道中)の日本橋から1番目の宿場町で、江戸四宿の一つである。
千住宿は、武蔵国足立郡豊島郡荒川(現隅田川)曲流部で海抜2メートル前後の沖積低地上、荒川に架けられた千住大橋沿い、隅田川両岸に設置され、南北に延びる奥州街道・日光街道に沿って形成された宿場町である。日光街道および奥州街道の初宿で、水戸街道はここから分岐していた。現在の東京都足立区千住一丁目 – 五丁目、千住仲町、千住橋戸町、荒川区南千住に相当する。
文禄3年(1594年)隅田川に千住大橋が架けられ、五街道の整備が進められると、慶長2年(1597年)に奥州街道・日光街道の宿駅に指定された。 千住は、奥州街道・日光街道と荒川が千住大橋にて交差し、荒川・隅田川・綾瀬川が付近で合流しており運輸・交通の便に有効な場所であったことから、隅田川で千住大橋沿いに橋戸河岸が置かれていた。千住河原町に設置されていた千住青物市場(やっちゃ場)は御用市場となった。千住は江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。千住宿は岡場所としても発展した。また、千住宿近隣には行楽地が出現し浮世絵や絵画に描かれている。そして、千住宿の南の町小塚原町には江戸北の刑場として、小塚原刑場が置かれている。
東海道品川宿中山道板橋宿甲州街道内藤新宿と並んで江戸四宿と呼ばれていたが、明治4年(1872年)に助郷制度・伝馬制廃止に伴い廃止された。  (wikipedia・千住宿より)

絵地図初期設定画面左下の二又上が日光道、下が現在の金杉通りで交点周辺が南千住宿になり、間に吉原が描かれています。絵図面右下に東叡山寛永寺が描かれています。

絵地図初期設定画面中央上に「千住宿」と記述され、その下右に一里塚が描かれています。絵地図をスクロールすると、文禄3年(1594年)11月隅田川に最初に架設された千住大橋が描かれています。

絵地図初期設定画面左下に「梅田村(足立区梅田)」と記述されています。絵地図をスクロールすると、街道に二丁目-五丁目と記述されていて、五丁目(足立区千住5丁目)の上に道筋が描かれています、これは水戸街道の分岐になり、水戸街道右に長円寺が描かれています。絵地図中央付近のカーブの部分が現在の荒川の川筋になります。

絵地図初期設定画面中央に「輿野村(現在の足立区梅島にあたる。)」と記述され、絵地図をスクロールすると「梅田村」と記述されています。

絵地図初期設定画面中央右下に「六月村(足立区六月)」と記述され、「六月村」右上街道に一里塚が描かれています。「六月村」内に描かれる寺は炎天寺と思われ、左の道筋が赤山街道になると思います。絵地図を右スクロールすると「嶋根村(足立区島根)」と記述され、「嶋根村」の左下の区域は国土安穏寺と思われます。

絵地図初期設定画面街道中央右に川筋が描かれています。この川は毛長川で現在の東京都足立区と埼玉県草加市の境になります。右上に「保木間(足立区西保木間)」と記述され、絵地図を右スクロールすると「竹塚村(足立区竹の塚)」と記述されています。

    日光道中分間延絵図(草加宿)