日光道中分間延絵図(幸手宿)

幸手宿(さってじゅく)は、江戸時代に整備された宿駅であり、日光街道奥州街道江戸・日本橋から6番目、そして日光御成道の6番目の宿場町である。下総国葛飾郡または猿島郡万治年間以降所属替えにより武蔵国葛飾郡)に所属する。現埼玉県幸手市に相当する。
幸手宿は江戸・日本橋から数えて6番目の日光街道および奥州街道の宿駅(宿場町)で、日光街道と日光御成道が合流していることから、日光御成道の6番目の宿駅であった。幸手宿は、古利根川右岸の平地に位置し下総国葛飾郡にあったが、利根川筋の改修に伴い武蔵国葛飾郡に属していた。利根川筋の改修に伴い国境変更が行われ、万治年間より武蔵国桜井郷田宮の庄に属し、元禄年間より幸手宿と称された。
近世前期より江戸幕府直轄領で、宿内は右馬之助(うまのすけ)町 ・久喜町・中町・荒宿の4町および枝郷の牛村であった。元和2年(1616年)に人馬の継立が始まり、夫25人、馬25匹を定数とし、地子免許の地を1万坪、助郷を1万1845石、民家845軒であった。天保14年(1843年)「宿村大概帳」によると本陣1軒、脇本陣なし、旅籠27軒、人馬継問屋場は1ヵ所、高札場一ヵ所あった。問屋場への勤めは「問屋場勤向書上帳」によると久喜町・仲町・荒宿・右馬之助町で一日交替であったという。高2095石6升、当時の人口は3,937人、家数962軒であった。
また、幸手宿周辺では、物資流通・商業施設である船着場の権現堂河岸、日光街道と日光御成道が合流する重要な宿場周辺に六斎市があった。  (wikipedia・幸手宿より)

絵地図初期設定画面左の川は倉松川で街道に架かる橋は志手橋になり、志手橋左上に神明神社、参道左に高札場が描かれています。絵地図を右にスクロールすると追分が描かれています、下が日光御成道、上が旧日光街道になります。さらにその右に「上高野村(幸手市上高野)」と記述されています。

絵地図初期設定画面に「内国府間村(幸手市内国府間)」と記述され、絵地図右、桝形道の下に幸手の一里塚が描かれています。絵地図を右にスクロールすると「幸手宿」と記述され、右端に倉松川志手橋が描かれています。

絵地図初期設定画面に「高須賀村(幸手市高須賀)」と記述され、絵地図右の川が中川、上に描かれる水面が権現堂川になります。

絵地図初期設定画面中央に小右衛門の一里塚が描かれています。絵地図を右にスクロールすると「外国府間村(幸手市外国府間)」と記述されています。

絵地図を右にスクロールすると「小右衛門村(久喜市小右衛門)」と記述されています。

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