日光道中分間延絵図(越ヶ谷宿)

越ヶ谷宿(こしがやじゅく)は、江戸時代に整備された奥州街道および日光街道宿場町の一つである。越ヶ谷宿は、江戸・日本橋から数えて3番目の日光街道および奥州街道の宿駅(宿場町)であり、江戸(日本橋)からの距離は6里8町であった。前宿草加宿から1里28町、次宿粕壁へ2里30町あり、奥州道(後の日光街道)の整備に伴い成立された。
越ヶ谷宿は、江戸時代に整備された奥州街道および日光街道の宿場町の一つである。越ヶ谷宿は、江戸・日本橋から数えて3番目の日光街道および奥州街道の宿駅(宿場町)であり、江戸(日本橋)からの距離は6里8町であった。元荒川右岸の越ヶ谷(武蔵国)と左岸の大沢(武蔵国)の二つの町を合わせた範囲の宿場町であった。その規模は千住宿に次ぐ規模となった。越ヶ谷側は武蔵国の久伊豆神社があり、大沢側には下総国の一の宮香取神社が鎮座していた。久伊豆神社は、治水工事により元荒川の流路が変更されたため、久伊豆神社は元荒川の越ヶ谷宿の対岸となっている。
慶長7年(1602年)に奥州街道・日光街道が整備され始め、元和3年(1617年)日光東照社建立以降領主通行の増大に伴い、道路や宿駅・助郷の整備が進められた。 越ヶ谷宿は江戸幕府の成立後すぐに奥州街道の宿場正式な宿場となった。 元荒川の対岸には越ヶ谷の伝馬上の助郷村として、既に慶長17年(1612年)以前に武蔵国埼西郡(埼玉郡)に編入されていた新方庄に含まれる大沢に大沢宿が成立した。越ヶ谷宿の開発は、参勤交代制の制定、日光東照宮造営の竣工、日光社参の制度化に伴い、承応3年(1654年)越ヶ谷宿は、助郷村であった大沢村の両町の宿場機能の両者により完成した。
越ヶ谷と大沢は、当初、越ヶ谷町の本陣問屋役持回りなど宿場の要職は会田一族に集中していた。安永2年(1773年)越ヶ谷町と大沢町両町惣百姓大評定のうえ伝馬業務両町合体を決め、越ヶ谷宿の宿駅機構の改革とその伝統的権威の多くの失墜のため、越ヶ谷宿の本陣は越ヶ谷町から、大沢町の福井家へ移った。『日光道中宿村大概帳』によると、天保14年(1843年)越ヶ谷宿には本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠52軒が設けられていた。宿内の家数は1,005軒、人口は4,603人であった。
越ヶ谷御殿は、慶長9年(1604年)に設けられたが、明暦の大火により江戸城焼失に伴い解体した。徳川家康徳川秀忠も御殿に休泊し、民情視察を兼ねて鷹狩りを重ねていた。慶安2年(1649年)徳川家綱の時、日光社参の際休泊に利用された。
近隣に河岸場があり、蒲生村(越谷市)に藤助河岸があった。江戸時代以後、明治大正期にも大量の出荷や取引が行われていた。
越ヶ谷宿では火災や地震の被害の記録があり、都市的で濃密な集住であるために大火、また、安政大地震の被害の記録が残されている。  (wikipedia・越ヶ谷宿より)]

絵地図初期設定画面中央右上に「瓦曽根村(越谷市瓦曽根)」と記述され、そこの上の池は瓦曽根溜井になります。絵地図を右スクロールすると「西方村(越谷市西方)」「登戸村(越谷市登戸町)」と記述されています。

絵地図初期設定画面に「大澤町(越谷市大沢)」と記述され、そこの右上に脇本陣が二軒と問屋場が記述され、そこの右方向に本陣と記述されています。絵地図右に「元荒川」と「大橋(大沢橋)」、大橋右下に高札場、その上方向に越ヶ谷御殿跡が描かれています。絵地図を右スクロールすると、「元荒川」右に「越ヶ谷宿」と記述され、そこの左上の二又交差点左側に問屋場と記述されています。

絵地図初期設定画面に「大林村(越谷市大林)」と記述され、右スクロールすると「大房村(越谷市大房)」「大澤村」と記述されています。

絵地図初期設定画面左下に「下間久里村(越谷市下間久里)」、右上に「大里村(越谷市大里)」と記述され、右スクロールすると「大林村」と記述されています。

絵地図初期設定画面左下に「大枝村(春日部市大枝)」、右上に「上間久利村(越谷市千間台東越谷市上間久里)」と記述され、スクロールすると右端に「下間久里村」と記述され、そこの左上に下間久里一里塚が描かれています。

日光道中分間延絵図(草加宿)  日光道中分間延絵図(粕壁宿)