絵地図を右にスクロールすると「橋本町(八幡市橋本)」が描かれ、家並はじれの横断水路が「橋本町」と「楠葉(くずは)村(枚方市楠葉)」の境界で、そこの左下に木津寺(久修園院)が描かれています。
絵地図を右にスクロールすると「楠葉村」と記述され、右上に建長寺(今昔マップ on the web)が描かれています。
絵地図初期設定画面に「下島村」、「養父村」、「宇山村」、「上島村」と記述され、右に船橋川渡渉が描かれています。船橋川が「楠葉村」と「上島村」の境界です。
[明治22年(1889年)4月1日 – 町村制の施行により、渚村、禁野村、磯島村、小倉村、坂村、宇山村、養父村、上島村、下島村が牧野村となる。1935年(昭和10年)2月11日 – 招提村と合併して殿山町が発足。同日牧野村廃止。1938年(昭和13年)11月3日 – 枚方町・山田村・樟葉村・川越村・蹉跎村と合併し、改めて枚方町が発足。同日殿山町廃止。 (wikipedia・交野郡、牧野村_(大阪府)、殿山町より]
絵地図初期設定画面に「小倉村」、絵地図を右にスクロールすると「坂村」、その右に穂谷川渡渉が描かれ、「下島村」、「養父村」、「宇山村」と記述されています。
[穂谷川に架かる馬場前橋を渡ると小倉村(黄金野)から阪村(牧野阪)に入ります。牧野阪は昔は阪村と呼ばれたので、阪と標記される建物が多く残ります。 (「 穂谷・大和棟の家 」 – 枚方市)より)]
[枚方が市じゃなくてまだ小さな村の集まりだった明治のころ、今の牧野から御殿山のあたりは「禁野村」「磯島村」「養父村」「上島村」「下島村」「渚村」「小倉村」「坂村」「宇山村」があって、後にこれらが合併して「牧野村」になりました。この中に「三栗村」という地名はないので、昔は「小倉村三栗」とかいう呼び方だったんだと思います。
もしかしたら「小倉村三栗(おぐらむらみくり)」を言おうとして言い間違いで「おぐり」とか「みぐり」とか言ってるうちに「めぐり」になったのかも?w (枚方市三栗を「めぐり」と読む理由。明治以前の牧野あたりの)より]
絵地図初期設定画面右下に御殿山が描かれています。絵地図を右にスクロールすると「渚村」と記述されています。
絵地図初期設定画面に「禁野村」、「磯島村」と記述され、その間に黒田川板橋(日野橋)が描かれています。
絵地図初期設定画面に「枚方宿」と記述され、絵地図を右にスクロールすると天野川渡渉が描かれ、その右に「禁野村」と記述されています。天野川が磯島村・禁野村・枚方宿境界になります。
絵地図を右にスクロールすると「伊加賀村」と記述され、右下に「枚方宿」と記述されています。「伊加賀村」記述の上が「枚方宿」の木戸口になります。(今昔マップ on the web)
[明治22年(1889年)4月1日 – 町村制の施行により、枚方村、三矢村、泥町村、伊加賀村、岡村、岡新町村が枚方町(現・枚方市)となる。 (wikipedia・茨田郡より)]
[「枚方宿」の範囲は、かつての文禄堤上に位置する岡新町村・岡村・三矢村・泥町村の4村で、本陣・問屋場・高札場は三矢村に置かれました。4村は幕府直轄領に属していましたが、宿場としては道中奉行の支配を受け、人馬役の負担が義務づけられました。助郷は周辺28ヵ村にも及びましたが、京街道の宿場は淀川舟運に貨物・旅客をとられ、上り方向(京都方面)に通行量の片寄る「片宿」の状況を呈していました。枚方宿は旅籠屋が多いのが特徴で、歓楽街としての賑わいもみせていました。 (「ひらかたの歴史|特定非営利活動法人 枚方文化観光協会」より)]
絵地図初期設定画面に「木屋村(寝屋川市木屋元町)」と記述され、絵地図を右にスクロールすると「出口村(枚方市出口)」と記述されています。
[明治22年(1889年)4月1日 – 町村制の施行により、中振村、出口村、走谷村が蹉跎村(現・枚方市)となる。太間村、郡村、三井村、田井村、木屋村、平池村、石津村が友呂岐村(現・寝屋川市)となる。 (wikipedia・茨田郡より)]