ポーラ美術館

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ポーラ美術館
[ポーラ美術館は、神奈川県足柄下郡箱根町仙石原にある美術館。公益財団法人ポーラ美術振興財団が運営している。印象派絵画のコレクションは日本最大級。富士箱根伊豆国立公園に位置し、ブナヒメシャラなどが見られる遊歩道を有する。
ポーラ化粧品で知られるポーラ創業家2代目であった鈴木常司が数十年にわたって収集した美術品約9500点を展示するため、「箱根と自然と美術の共生」のコンセプトのもと、2002年9月に開館した。現在の収蔵作品数は約10,000点。
鈴木常司が1950年代後半から40数年かけて集めたコレクションは、西洋絵画、日本の洋画、日本画、版画、彫刻、東洋陶磁、日本の近現代陶芸、ガラス工芸、化粧道具などを含む。収集品の中核を成すのは19世紀以降の西洋絵画および近代日本絵画で、5つある展示室のうち3室がこれらの絵画にあてられている。残り2つの展示室のうち2室は東洋陶磁、ガラス工芸、化粧道具の展示にあてられている。
西洋絵画のコレクションには、クロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールポール・セザンヌフィンセント・ファン・ゴッホパブロ・ピカソなどの作品を含む。常設展示のほか、各種の企画展示、講演会、ギャラリートークなどの普及活動を行っている。  (wikipedia・ポーラ美術館より)]

ポーラ美術館ホームページ

主な収蔵作品
●ルノワール『レースの帽子の少女』(1891年)(commons.wikimedia)

エドゥアール・マネ『ベンチにて』1879年(パステル)(wikipedia-photo)

●モネ『花咲く堤、アルジャントゥイユ』1877年(wikipedia-photo)

●モネ『睡蓮の池』(1899年)(wikipedia-photo)

●ゴッホ『ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋』1888年3月(wikipedia-photo)

[ファン・ゴッホは、1888年2月20日、弟テオのアパルトマンを去って南フランスのアルルに到着し、オテル=レストラン・カレルに宿をとった。ファン・ゴッホは、この地から、テオに画家の協同組合を提案した。エドガー・ドガクロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールアルフレッド・シスレーカミーユ・ピサロという5人の「グラン・ブールヴァール」の画家と、テオやテルステーフなどの画商、そしてアルマン・ギヨマンジョルジュ・スーラポール・ゴーギャンといった「プティ・ブールヴァール」の画家が協力し、絵の代金を分配し合って相互扶助を図るというものであった。
ファン・ゴッホは、エミール・ベルナール宛の手紙の中で、「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため日本みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」と書いている。3月中旬には、アルルの街の南の運河にかかるラングロワ橋を描き(『アルルの跳ね橋』)、3月下旬から4月にかけてはアンズやモモ、リンゴ、プラム、梨と、花の季節の移ろいに合わせて果樹園を次々に描いた。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#ゴーギャン到着までより)]

●ゴッホ『草むら』1889年4月(wikipedia-photo)

[1889年1月20日、ジョゼフ・ルーラン(郵便配達人ジョゼフ・ルーラン)が、転勤でアルルを離れなければならなくなり、ファン・ゴッホは、親友を失った。ファン・ゴッホは、テオに、耐えられない幻覚はなくなり、悪夢程度に鎮まってきたと書いている。しかし、2月に入り、自分は毒を盛られている、至る所に囚人や毒を盛られた人が目につく、などと訴え、2月7日、近所の人が警察に対応を求めたことから、再び病院の監禁室に収容された。2月17日に仮退院したが、2月25日、住民30名から市長に、「オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」として、家族が引き取るか精神病院に収容するよう求める請願書が提出された。2月26日、警察署長の判断で再び病院に収容された。警察署長は、関係者から事情聴取の上、3月6日、専門の保護施設に監禁相当との意見を市長に提出した。
ファン・ゴッホは、3月23日までの約1か月間は単独病室に閉じ込められ、絵を描くことも禁じられた。「厳重に鍵をかけたこの監禁室に長い間、監視人とともに閉じ込められている。僕の過失など証明されておらず、証明することもできないのに」と憤りの手紙を送っている。4月18日の結婚式を前に新居の準備に忙しいテオからもほとんど便りはなく、フィンセントは結婚するテオに見捨てられるとの孤独感に苦しんだ。
そんな中、3月23日、画家ポール・シニャックがアルルのファン・ゴッホのもとを訪れてくれ、レー医師を含め3人で「黄色い家」に立ち入った。不在の間にローヌ川の洪水による湿気で多くの作品が損傷していることに落胆せざるを得なかった。しかし、シニャックは、パリ時代に見ていたファン・ゴッホの絵とは異なる、成熟した画風の作品に驚いた。ファン・ゴッホも、友人の画家に会ったことに刺激を受け、絵画制作を再開した。外出も認められるようになった。
病院にいつまでも入院していることはできず、「黄色い家」に戻ることもできなくなったため、ファン・ゴッホは、居場所を見つける必要に迫られた。4月半ばには、レー医師が所有するアパートを借りようという考えになっていたが、1人で生活できるか不安になり、あきらめ。最終的に、4月下旬、テオに、サル牧師から聞いたサン=レミの療養所に移る気持ちになったので、転院の手続をとってほしいと手紙で頼んだ。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#アルル市立病院より)]

●ゴッホ『アザミの花』1890年(wikipedia-photo)

[1890年5月20日、ファン・ゴッホはパリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズの農村に着き、ポール・ガシェ医師を訪れた。ガシェ医師について、ファン・ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」と妹ヴィルに書いている。ファン・ゴッホは村役場広場のラヴー旅館に滞在することにした。
ファン・ゴッホは、古い草葺屋根の家々、セイヨウトチノキ(マロニエ)の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描いた。6月初めには、さらに『オーヴェルの教会』を描いた。6月末から50cm×100cmの長いキャンバスを使うようになる。
この頃、パリの弟テオは、勤務先の商会の経営者ブッソ、ヴァラドンと意見が対立しており、ヨーの兄アンドリース・ボンゲル(ドリース)とともに共同で自営の画商を営む決意をするか迷っていた。またヨーと息子が体調を崩し、そのことでも悩んでおり、テオは6月30日、兄宛に悩みを吐露した長い手紙を書いている。7月6日、ファン・ゴッホはパリを訪れた。ヨーによれば、アルベール・オーリエや、トゥールーズ=ロートレックなど多くの友人が彼を訪ねたほか、アルマン・ギヨマンも来るはずだったが、ファン・ゴッホは「やり切れなくなったので、その訪問を待たずに急いでオーヴェルへ帰っていった」という。この日、テオやヨーとの間で何らかの話合いがされたようであるが、ヨーはその詳細を語っていない。ファン・ゴッホは、7月10日頃、オーヴェルからテオとヨー宛に「これは僕たちみんなが日々のパンを危ぶむ感じを抱いている時だけに些細なことではない。……こちらへ戻ってきてから、僕もなお悲しい思いに打ちしおれ、君たちを脅かしている嵐が自分の上にも重くのしかかっているのを感じ続けていた。」と書き送っている。また、大作3点(『荒れ模様の空の麦畑』、『カラスのいる麦畑』、『ドービニーの庭』)を描き上げたことを伝えている。また、ファン・ゴッホはその後にもテオの「激しい家庭のもめ事」を心配する手紙を送ったようであり(手紙は残っていない)、7月22日、テオは兄に、(共同自営問題に関し)ドリースとの議論はあったものの、激しい家庭のもめ事など存在しないという手紙を送り、これに対しファン・ゴッホは最後の手紙となる7月23日の手紙で「君の家庭の平和状態については、平和が保たれる可能性も、それを脅かす嵐の可能性も僕には同じように納得できる。」などと書いている。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#オーヴェル=シュル=オワーズ(1890年5月-7月)より)]

カメラ東方向がポーラ美術館です。