小田原一里塚跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第二 戸塚ヨリ小田原マデ」(コマ番号19/19)
絵図右方向にスクロールすると「一里塚 京から百里 江戸から二十里」と記述されています。

  
小田原一里塚跡
[見附とは、城の枡形門に設けられた見張番所であって、武器を用意し昼夜番士が詰めて警戒にあたる場所であるが、本城より外濠城門を示す場合が多い。
 小田原城は、天正18年(1590)の豊臣秀吉との小田原合戦の際には、町ぐるみ堀や土塁で囲まれていたが、江戸初期にこの構造を壊して東海道を通す際に、枡形が作られた。小田原城から江戸に向かう出口であったため、江戸口見附と名づけられた。
 また、ここは江戸から20番目の一里塚があった場所でもある。
 慶長9年(1604)江戸幕府将軍徳川家康は、息子秀忠に命じて、東海道、東山道北陸道に、江戸日本橋を起点として一里(36町・約4キロ)ごとに 塚を造らせた。塚は男塚、女塚と、街道の左右に対で置かれ、広さは通常5間(約9メートル)四方であった。塚にはを植え、旅人の1里ごとの目印とする とともに、夏季における木陰の休息場所とした。
 天保年中の相模国風土記稿には、「江戸口の外南側にあり、高六尺五寸、幅五間ばかり、塚上榎樹あり しが、中古槁れ、今は松の小樹を植ゆ、古は双コウとなれり。けだし街道の革(あらた)まりし頃、一コウは海中に入しならん。これより東は小八幡村、西は風祭村の里コウに続けり」とされている。
『江戸口見附並びに一里塚』説明より  (「小田原一里塚(名右衛門)」より)]

小田原一里塚跡案内板(Google Map 画像)

小田原一里塚跡 – Google Map 画像リンク

カメラ南方向石垣上に小田原一里塚跡案内板があります。