旧東海道石畳・白水坂口

ストリートビューの初期設定位置は旧東海道石畳・白水坂口です。
地図上のアイコン上でマウスクリックし、アイコン移動すると、移動アイコン位置にストリートビューが存在すれば地図下のストリートビュー画面が、その位置のストリートビューに表示変更されます。また、ストリートビュー画面で移動すると地図上のアイコンも移動します。


  
国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第三 小田原ヨリ三島マデ」(コマ番号8/14)
絵図右にスクロールし、絵図中央に「此遍 白水と云」と記述されています。

旧東海道石畳・白水坂
[甘酒茶屋で休憩をとったら再び坂を上り始めよう。「於玉坂」というこの坂には、関所破りで処刑された少女「玉」の悲しい物語が伝わっている。
 県道を横断すると「白水坂」。石畳の構造の一つ、縦の排水路を構成する肩石が整然と並んでいるさまが美しい。
 坂は徐々に角度を増し、現存する石畳の中では一番の急角度を持つ「天ケ石坂」となる。 ​  (「箱根宿2 – 関東地方整備局」より)]

[入口右側の吊り案内板には『箱根旧街道 元箱根まで四十分』と書かれていた。また、左側には『史跡 箱根旧街道』と刻まれた石碑が建ち、その左脇には五輪塔も建っていた。石碑の後ろには箱根旧街道の説明板が立っている。
【箱根旧街道】 国史跡(昭和35年9月22日指定)
  件    名  箱根旧街道
  指  定  者  国
  指 定 名 称  史 跡
  指定年月日  昭和三十五年九月二十二日
  所  在  地  箱根町湯本茶屋~箱根
 江戸幕府元和四年(1618年)十六夜日記でも知られる旧来の湯本から湯坂山-浅間山-鷹ノ巣山-芦ノ湯を経て、元箱根に至る湯坂道(現ハイキングコース)を廃し、湯本の三枚橋から須雲川に沿い畑宿を通り、二子山の南側を経て、元箱根に至る古い山路をひろげ、世に箱根の八里越えと伝えられる街道を作った。この街道は、寛永十二年(1635年)参勤交代の制度ができて、一層交通が盛んとなり、そのありさまは詩歌、物語等にも多く歌われた。延宝八年(1680年)幕府の手によりはじめてこの街道に石が敷かれたが、この石敷の道は現在も所々に存し、国の史跡に指定されている。現在残っている石畳は、文久三年(1863年)二月、孝明天皇の妹、和宮内親王が十四代将軍徳川家茂のもとに降嫁されるにあたり幕府が時の代官に命じ文久二年(1862年)に改修工事を完成させたものだといわれている。平均、約三・六メートルの道幅の中央に約一・八メートル幅に石が敷きつめられていたという。この地点から元箱根に至る約一キロに石畳が現存している。
     昭和四六年三月 文化庁 箱根町教育委員会
少し登った右側に白水坂の石碑が建っていて、『白水坂 登リ十二間餘』と刻まれていた。
石碑のすぐ先に「大澤坂」にもあった石畳の構造と題する説明文が立っている
【石畳特別保存地区 石畳の構造】
  この付近の石畳は、江戸時代初期、石畳施設当初の構造を今に伝えています。
 石畳は、小石と土とを密に固めた地面の上に、石と石とを組み合わせて並べており、さらに石畳の横に縦の排水路を持っています。
 また、並木が植っていた土手も人工的に造られたものです。
     平成二年十一月 箱根町教育委員会  (「旧東海道12回目(箱根東坂)」より)]

城見ず坂
[新編相模国風土記稿では「白水坂」と記され、現在「白水坂」と表記されている坂道を、付近の古老は「城見ず坂」と呼んでいます。天正18年(1590年)豊臣秀吉小田原攻略の時、小田原北条方の軍勢が尾根上から大量の石を落としたため進軍を阻まれ、やむなく小田原城を見ることなく引き返した。といういわれがある坂です。  (「安全・安心な道路利用のために – 関東地方整備局」より)]

旧東海道石畳 – Google Map 画像リンク

カメラ北西方向が旧東海道石畳・白水坂口です。

旧東海道石畳・白水坂口(Google Map 画像)

史跡案内板(Google Map 画像)

旧東海道石畳構造(Google Map 画像)

白水坂標石(Google Map 画像)
]

旧東海道石畳(Google Map 画像)