旧東海道(箱根旧街道)橿木坂

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第三 小田原ヨリ三島マデ」(コマ番号7/14)
絵図下に「一里塚 京から九十七里 江戸から二十三里」、その左上方向に「此遍 さいかちと云」、「此遍 かしの木と云」「此遍 さるすべりと云」と記述されています。

  
旧東海道(箱根旧街道)橿木坂
[西海子坂を過ぎると再び県道に合流するが、この辺りは現在「七曲り」と呼ばれ、きついカーブが続く。江戸時代の道は、ここをほぼ直登するルートとなっており、上り坂の苦しさに「どんぐりほどの涙こぼるる」といわれた「樫木坂」という難所となる。   (「箱根宿2 – 関東地方整備局」より)]

[「橿の木坂バス停」を過ぎ、七つ目のカーブを曲がる所で、左側に二つ目の石段が現れる。 ここの上り口に橿木坂の説明板と石碑が建っている。石碑には『橿木坂 登リ五町許』と刻まれていた。
この石段はきつかった。まず85段上って、踊り場から更に109段あった。
合計194段の息を切らせて登った所で、道は二手に分かれる。
角に旧街道 見晴橋と書かれている道標が立っていて、それによると真直ぐの上り石段方面が『元箱根 車道』、左の橋を渡る道は『須雲川自然探勝歩道 元箱根 3KM』、今まで登って来た方向は『畑宿 1.5KM』となっていた。
自然探勝歩道を歩いているので、道標に従って左へ見晴橋を渡って行く。
短い橋を渡った所に『箱根旧街道(新設歩道)』の吊り案内板があり、『甘酒茶屋 一、三〇〇米・元箱根 三、〇〇〇米』とあった。
その先には、今までと同じ須雲川自然探勝歩道の地図が掲げられている。
地図の直ぐ先に、ベンチが置かれた広場があり、この広場には雲助と呼ばれた人たちと題する説明板が立っている。
【雲助と呼ばれた人たち】
 「箱根の雲助」というと知らない人はいません。ところが雲助とよばれた人たちは、実は、この小田原の問屋場で働く人足たちだったのです。しかし雲助というとなにか悪者のように考えますが、それは一部の人で、問屋場では人足を登録させ仕事を割当てていましたので、悪さをした人などはいなかったといいます。
 日本交通史論という資料によると、雲助になるのは次の三つにパスしなければならなかったそうです。その内容をみると、なかなかむずかしく、誰でもすぐなれるという職業ではなかったようです。
一、力が非常に強いこと。(これは仕事の性質上ぜひ必要です。)
ニ、荷物の荷造りがすぐれていること。(荷物を見ると、だれが造ったものかわかり、また箱根で一度荷造りした荷物は、京都まで決してこわれなかったそうです。)
三、歌をうたうのがじょうずでないと、一流の雲助とはいわれなかったそうです。
 こうした人足のほかに、馬をひく「馬子」、駕籠をかつぐ「駕籠かき」たちの雲助が、元箱根や湯本など箱根の各地に住み、通行や温泉遊覧のたすけをしていました。
     環境省・神奈川県  (「旧東海道12回目(箱根東坂)」より)]

『東海道五十三次(狂歌入東海道)箱根』(Wikimedia Commons)

[「狂歌入東海道」と呼ばれる揃物です。隷書東海道と同様、夜中の松明登りの様子が描かれており、駕籠や松明を担ぐ人々(雲助)を連想させる、「ことわさに 雲ともいへる 人なれや かゝる山路を 夜るも越ゆく」の狂歌が添えられています。  (「東海道五拾三次 箱根 文化遺産オンライン」より)]

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 十一 五十三次 箱根 夜中松明とり」(wikipedia-photo)

カメラ南西方向に橿木坂の碑と案内板があります。

橿木坂の碑と案内板(Google Map 画像)

橿木坂の碑(Google Map 画像)

橿木坂の案内板(Google Map 画像)

街道維持案内板(Google Map 画像)

石畳構造(Google Map 画像)

排水構造(Google Map 画像)

【雲助と呼ばれた人たち】(Google Map 画像)