東海道絵図(吉原宿)

吉原宿(よしわらしゅく、よしわらじゅく)は、東海道五十三次の14番目の宿場である。現在の静岡県富士市に位置する。陸上交通や水運の拠点であったほか、富士参詣の宿駅としても機能した。
吉原宿は当初現在のJR吉原駅付近にあった(元吉原・元吉原村-現在の富士市南西部、沼川以南、潤井川以東にあたる。静岡県富士市今井)が、1639年(寛永16年)の高潮により壊滅的な被害を受けたことから、再発を防ぐため内陸部の現在の富士市依田原付近に移転した(中吉原、現在の八代町付近)。しかし1680年(延宝8年)8月6日の高潮により再度壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町(吉原商店街)に移転した。このため原宿 – 吉原宿間で海沿いを通っていた東海道は吉原宿の手前で海から離れ、北側の内陸部に大きく湾曲する事になり、それまで(江戸から京に向かった場合)右手に見えていた富士山が左手に見えることから、”左富士”と呼ばれる景勝地となった。往時は広重の絵にあるような松並木であったが、現在は1本の松の木が残るのみである。  (wikipedia・吉原宿より)]

東海道絵図は「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第四 三嶋ヨリ江尻マデ」よりダウンロードして利用しています。
本絵図は正確な東海道絵図では現存、最古のもので、天和初年(一六八一) 頃作成の絵図である。  (1−東海道絵図集成H− 全二巻)より

五海道其外分間絵図並見取絵図(東海道分間延絵図_13巻之内3・文化3年(1806)完成)-マイマップの吉原の青の部分

  
以降の吉原宿の東海道絵図は中吉原時代(1639-1680年)の絵図になります。-マイマップの赤の部分

元図「コマ番号 4/12」リンク

絵地図初期設定画面上に中吉原宿が描かれ、右上に「禅宗 十あん寺(立安寺・現-富士市中央町2丁目4−31)」、「禅宗 じげん寺(慈眼寺・廃寺)」、中央上に「妙せう寺(妙祥寺・現-富士市中央町1丁目9−58)」、その右下に「吉原 札辻」、そこの下方向に「せんけん(浅間・左富士神社の古称か ? )」、「かうようあん」、「浄土宗 むれういん」と記述、絵地図を右スクロールすると沼川(河合橋)、その下に元吉原の家並が描かれています。
[依田橋町の旧東海道筋に鎮座する左富士神社。この神社は江戸時代に悪王子神社と称し、明治期に現社名へ改称された。左富士神社境内に設ける「依田橋村一里塚」碑と一里塚のモニュメント。吉原宿の2度の移転に伴い一里塚も移され、延宝8年(1680年)中吉原から新吉原へ宿場が移ったときに、ここ左富士神社の北側に新たな一里塚が築かれた。  (「吉原名物「左富士」 – 街道の行く先へ – FC2」より)]


悪王子の盛(森)の下添いに、地蔵堂橋の詰より、北へ今泉の作道あり。今往還と成る新橋より西へ半町余り、板屋町にて、この角より裏道あり。南壱町ばかり離れて、民家三軒あり。妙法寺という寺ともに、これを四つ屋という。田嶋中河原の作道あり。この角より壱丁余曲りて、これを横町という。西へ曲りて板屋町にて三町、小橋弐ヶ所有り。南向きに家六軒有り。板屋町の内にて六軒町という小名、これなり。本町と田嶋と少し隔りて民家弐十軒ばかり有り。
この村と町との間に山神の森あり。宮守りに自法という禅の老僧居ます。何れの頃より住むともしらず、日々の飲食も喰う事を見ず。仙人とも云いつべしやと尊ず。この氏神、保泉寺の控えにて有り。六軒町より西へ弐町、西町という。立安寺、慈眼寺、門前向い合う。南方は慈眼寺、壱本の大松有り。その元に元吉原の木之元権現を写(移)し奉る。この添いに中川原行きの田道あり。その続きに庚申堂あり。その辺に東西壱丁、南北半町、芝川原場あり。これを慈眼寺川原というて遊行場なり。
西町より三町程、追分町、それより壱丁余の続いて津田村なりというども、宿同様に家続き、村はずれに木戸を構うる。これより北は三日市場へ掛けて大宮道、また追分と津田との合いに、北へ依田原村より今泉へ通る道あり。この間に町付きの陣屋有り。上海道は前田道、下海道は高嶋へ出る。富士川も操り舟なり。上海道は吉原より蒲原までの道数(みちかず)、壱里拾九丁という。舟賃は蒲原宿の助成とするなり。
本町、横町の北角半丁程北に、妙祥寺の門前あり。この間に裏町有り。この角より壱丁程東へ曲りて、唯称寺門前、南隣り大運寺の門前、新橋詰め向いなり。妙祥寺の門前より壱丁半程東へ、今泉村方へ通る道あり。これを裏町通りと云う。この裏町は茅屋作りにて、東西南北へ街道有り。この前の世渡りは御用役人足を勤む。その外、八百屋もの売りて営(いとなみ)居る。  (「田子乃古道 11 中吉原の町筋案内 – かさぶた日録」より)]

[元来、富士川下流は広い河原を、浅瀬をもとめて自由に通行していたが、戦国時代になると経済的、政治的、また軍事的に重要視される様になり、1554(天文23)年には富士川渡船が統制的な特権として矢部氏に与えられていた。その後、渡船は次第に私的経営色の強いものに転化されてきた。こうした交通手段に公的性格や支配者的性格を確立したのが街道の整備であ、就中、富士川の東西交通に関する改革であった。先ず、富士 川東流の川成島にあった渡船場を1602(慶長7)年に西流の岩淵に移し、斉藤氏等を新たに渡船役とした。そして吉原 ・蒲原には宿駅を、渡し場のある岩淵には間駅を指定した。その上、これも矢部氏が取り仕切っていた吉原湊から蒲原間の海上ルートを、翌年に廃止し東海道はこの間、陸路のみとした。しかし、当時富士川はまだ東西流に分かれ、洪水のたびに主流は変化する状態で、岩淵の「渡し」は決して安定したルートではなかった。それは富士川越えに、その頃あった東海道の上街道(本道)と、吉原から川成島(富士市川成島)・宮島(富士市宮嶋)・五貫島(富士市五貫島)をへて富士川西岸蒲原側に渡る下街道はそのままとし、吉原・蒲原間は2ルートともそのまま残さざるを得なかった事からもうかがえる。その後、1674(延宝2)年、雁堤が完成し東流が完全に締切られ、富士川は西流に一本化された。このため富士川の渡しも岩本~岩淵ルートで安定することができた。その結果、1682(天和2)年には下街道を廃止し、東海道も上街道に一本化された。  (「冨士川雁堤と徳川幕府初期の治世への影響」より)]

元図「コマ番号 4/13」リンク

絵地図初期設定画面左に「かしま(鹿島地域)」、その右に「かわら志(ジ)ぞう(?)」、右に「うるい川(潤井川)」、その右に「たか志ま(富士市高島町)。「かわら志(ジ)ぞう」が「川原宿の単体道祖神(袂の塞神((たもとのさいのかみ)))」とすれば、この絵地図は天和初年(一六八一) 頃作成の絵図であるので、道祖神がこのころからあることになるので乱暴すぎるかな ? 。絵地図を右スクロールすると「あ御志ま(青島・富士市青島)」、「津たまち(富士市津田町)」、そこの右方向に「此所よ里 かん原へちか道(下街道)」と記述されています。
[富士川がもたらした砂礫により形成された扇状地である加島平野は、氾濫により開発が及ばない地域であった。やがて雁堤が完成すると富士川の本流は富士川西岸の岩淵村・中之郷方面へ移動し、それより東側に位置する富士川東岸の加島平野は次第に安定するようになった。このように安定を得た加島平野ではやがて新田開発が進み、その様相は「加島五千石」と讃えられるまでに至った。それにより農作物が作られるようになり、産物として「加島米」「富士梨」等が生まれた。加島米は『駿河国新風土記』に「米ハ早稲、多く他村に先ち熟す(中略)此を加島米と称す」とあり、この地で量産された。  (wikipedia・雁堤より)]

元図「コマ番号 4/14」リンク

絵地図初期設定画面中央に「ゆ乃き(富士市柚木)」と記述されています。その左の「天王」は「天白神社」のことと思われます。絵地図を右スクロールすると、「西平がき」(富士市平垣本町)と記述され、そこの左に「えいりつ寺(栄立寺)」、「きんせう寺(金正寺)」と記述され、そこの右方向に「一里塚 江戸から三十四里 京から八十六里」と本市場一里塚、その右上に「本市場(富士市本市場)」と記述されています。「本市場」に「鶴芝の碑」があります。「本市場」の右上に「浄土宗 ほうせん寺」、「浄土宗 ほうげん寺(法源寺)」と記述されています。

元図「コマ番号 4/15」リンク

絵地図をスクロールすると「富士川舟渡し」と記述され、その右方向に「水のもやうニよ里此の道を行」、「かご志た(籠下・現在の富士市松岡)」と記述されています。
[雁堤の築堤は古郡家(重高・重政・重年)で行い、その発端である重高は元和7年(1621年)に一番出しと二番出し(突堤)を築いた。次代の重政は新田開発事業を行うなどしたが、これら治水事業の後も富士川東岸は氾濫を続けていた。そのため重政の次代である重年はこれを盤石とするために寛文7年(1667年)に駿河国富士郡岩本村・篭下村(現在の富士市松岡)にかけて雁堤の築堤に着手し、延宝2年(1674年)に完成させた。7年の歳月をかけた大規模な事業であった。  (wikipedia・雁堤より)]

    東海道絵図(原宿・間宿柏原)    東海道絵図(蒲原)