東海道絵図(坂下宿)

坂下宿(さかしたしゅく、さかしたじゅく、また坂ノ下、阪之下等の表記あり)は、東海道五十三次の48番目の宿場である。現在の地番は三重県亀山市関町坂下。
かつては難所・鈴鹿峠を控えた宿場町として賑わい、江戸中期には本陣3、脇本陣1を含め旅籠51軒、町並5町56間あり、宿場の範囲は河原谷橋から岩屋観音までの約1kmであった。戸数約150戸、人口500人あまりと記録される。鈴鹿馬子唄では「坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に」(大竹屋は坂下宿の本陣の1つで小竹屋は脇本陣であった。本陣である大竹屋に庶民が泊まるのは不可能だが、脇本陣の小竹屋には少なくとも泊まってみたいものだ。)と唄われ、旅籠や本陣も数多く東海道有数の盛況な宿であった。
1650年(慶安3年)9月2日、宿場は土石流の被害を受け壊滅してしまう。幕府の援助を受け、1.3km東の現在の位置に移設される。  (wikipedia・坂下宿より)]

かつては大竹屋、松屋、梅屋の3本陣と小竹屋脇本陣が並び建ち、1843(天保14)年の「東海道宿村大概帳」には宿内の旅籠(はたご)は48軒と記録されている。この書によれば、旅籠の数は亀山宿21軒、関宿42軒、土山宿44軒であり、坂下宿が関、土山と並んで険しい鈴鹿越えの重要な宿場であったことが分かる。  (「坂下宿絵図 – 三重の文化」より)]

東海道絵図は「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第九 桑名ヨリ土山マデ」よりダウンロードして利用しています。

坂下宿(東海道53次)の周辺地図」(「鈴鹿峠の歴史」より)]

元図「コマ番号 9/21」リンク

絵地図初期設定画面上に「沓掛(亀山市関町沓掛)」と記述され、絵地図を右にスクロールすると、下に「一里塚 江戸から百二里 京から十八里」と一ノ瀬一里塚が表示され、右上に「弁才天」、左上に「ならのき(楢の木・バス停留所に名が残る。)」と記述され、その右上方向に「筆すて山」と記述され、「筆すて山」の左下の集落が歌川広重が描いた浮世絵『東海道五十三次保永堂版・阪之下-筆捨嶺』の茶屋がある集落と思われます。

元図「コマ番号 9/22」リンク

絵地図初期設定画面左下「伊勢 近江 堺」、「田村堂」と鈴鹿峠が描かれ、その右に「一里塚 江戸から百三里 京から十七里」と荒井谷一里塚が表示され、絵地図を右にスクロールすると、「はしの内に きよたき乃 石の観音三体」と「岩屋観音」について記述、その右に「がうこく寺 あミだ堂(護国寺 阿弥陀堂) 薬師堂」の記述、絵地図接続図端に「坂下 札辻」と記述され、坂下宿家並外れに「是ヨリ亀山領」と記述されています。

    東海道絵図(関宿)    東海道絵図(土山宿)