東海道絵図(岡部宿)

岡部宿(おかべしゅく、おかべじゅく)とは、東海道五十三次の21番目の宿場である。現在の静岡県藤枝市岡部町
隣の鞠子宿静岡市)との間の旧国道1号静岡県道208号藤枝静岡線)沿いや宇津ノ谷地区には、昔の街並が残る。
1836年(天保7年)再建の旅籠柏屋(かしばや)は、国の登録有形文化財に登録されている。また「岡部宿本陣址」(岡部宿内野本陣史跡広場)および内谷地区に残る「旧東海道の松並木」は藤枝市の史跡に指定されている。
明治時代に入り東海道本線が建設される際、当初は岡部宿を通る予定であったが、地形が険しい上に遠回りとなる宇津ノ谷峠を避けて大崩海岸を経由するルートに変更された(鉄道唱歌には宇津ノ谷峠のトンネルであるかのような歌詞があるが、事実を歌っていない)ため、東海道本線は敷設されないこととなり、宿場町としては衰退した。これに関して蒸気機関車の煙や火の粉を心配した住民が線路の建設を拒んだ(鉄道忌避伝説)という俗説もあるが、当時の新聞記事や県の上申書には東海道の各宿で積極的な誘致運動が展開されていたという記録こそあれ、反対運動があったという記録はない。1925年(大正14年)には、藤相鉄道が駿河岡部に通じたものの、わずか11年で廃止された。  (wikipedia・岡部宿より)

東海道絵図は「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第五 江尻ヨリ金屋マデ」よりダウンロードして利用しています。

元図「コマ番号 5/11」リンク

絵地図左下に「坂の下」と記述され集落が描かれ、その下に「ゆやごんげん」と記述、その右方向に「はなとりじぞう堂(鼻取地蔵)」「つたのほそ道」と記述され、右上に「地蔵堂」、「石佛」と記述され、それが「峠の地蔵堂」と思います。絵地図を右スクロールすると宇津ノ谷地区の「上の集落」「下の集落」が描かれ、「下の集落」右下に「つたのほそ道」と記述され、その右に「一里塚 江戸から四十五里 京から七十五里」と宇津ノ谷 一里塚が表示されています。
[『東海道名所図会』に、蔦の細道の説明の際に出現する。以下は『東海道名所図会』の記述である。
「宇津山蔦細道は『勢語』〔伊勢物語〕に出でて、いにしえよりその名高く古詠多し。上方よりこゝに至るには、岡部の駅(うまや)海道を一里ばかり行きて、湯谷口坂の下という所あり。(中略)少したいらなる所あり。こゝを神社平という。むかし社ありし古跡なりと教ゆ。按ずるに、『駿河風土記』に、「宇津谷本原神社は、仁徳天皇紀七年乙卯祭る所なり」云々。もしこの神社の古跡ならんか。」  (「005-0383 – ArtWiki」より)]

元図「コマ番号 5/12」リンク

絵地図初期設定画面左に「新町」、「禅宗 ふせう寺」と記述、新町は内谷村新町で現在の静岡県藤枝市岡部町内谷になり、岡部宿の加宿になります。接続絵図左の右端に「禅宗 せんそうじ(専称寺)」、「岡部 札辻」左にと記述されています。絵地図を右スクロールすると「十石坂」、ここに「十石坂観音堂」があります。「十石坂」右下に街道をはずれ、岡部川南側に、「一里塚 江戸から四十六里 京から七十四里」と岡部 一里塚が表示され、そこの右方向に「おてらグチ ? 」と記述されています。

元図「コマ番号 5/13」リンク

絵地図初期設定画面左に「是より西 田中領」と、右の「よこうち」は藤枝市横内で、二筋の川筋が描かれています。その下に「禅宗 志げん寺(慈眼寺)」と記述され、絵地図を右にスクロールすると「よこうちなわて(横内畷)」と街道並木が描かれ、街道並木右端に、「せいがんじ(誓願寺) 乃日(寺号碑)」と記述されています、現在誓願寺は廃寺となっていて、境内の街道に面して安置されていた五智如来像が旧境内地の西側に移転保存されています。絵地図右端に「新町」、「禅宗 ふせう寺」と記述されています。


(「ひたすらに願えば叶う五智如来 – 日々是好舌 – Goo ブログ」より)

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