東海道絵図(御油宿)

御油宿(ごゆしゅく、ごゆじゅく)は、東海道五十三次の35番目の宿場である。現在の愛知県豊川市御油町に所在する。街道の面影を残す松並木(御油の松並木)が美しいことから観光地になっている。
また、御油宿より東に追分があり、姫街道の西の起点となっている。姫街道は、「女改め」の厳しい新居宿を避けるために、お姫様などは東海道より浜名湖北の姫街道を通ることも多かったと言う。
1601年に徳川家康江戸日本橋から数えて35番目の宿駅として開設。本陣が最多時4軒。最少時2軒。
江戸風俗史にある尻尾の短い猫は御油猫と呼ばれ流行したが、御油から持ち込まれ、御油・赤坂の宿場駅間の短さを尻尾に例えて呼ばれた。
明治維新後、宝飯郡役所が置かれ、郡の中心になったが、国鉄 東海道本線の経由地に選ばれなかったため、鉄道開通後は鉄道が通じた御津蒲郡に繁栄を奪われた。これに関して、宿場が鉄道を忌避した(鉄道忌避伝説)という俗説があるが、反対運動があったという史料が発見されておらず、その上当時の鉄道局技師の書状に「赤坂・藤川間は其地勢狭隘且つ急勾配を付せざれば容易に線路敷設難相成(あいなりがたく)」という記述もあり、御油経由では16‰の勾配を避けられないのに対し、蒲郡経由ならば10‰の勾配で済むことがルート選定の理由であったとされる。  (wikipedia・御油宿より)

東海道絵図は「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第八 赤坂ヨリ宮マデ」よりダウンロードして利用しています。

元図「コマ番号 7/19」リンク

絵地図初期設定画面中央左に「志もごい(豊橋市下五井町)」、右の「やなぎはし」は現在の江川にかかる鹿菅橋と思われます。絵地図を右スクロールすると「下りニ此所から船右富士山見える」と記述され、その右下「よつや(豊橋市下地町四ッ屋)」、「一里塚 江戸から七十里 京から五十里」と下地一里塚が表示され、その右に「志もじ(豊橋市下地町)」、「せうげん寺(聖眼寺)」と記述され、その右下に吉田橋が描かれています。

元図「コマ番号 7/20」リンク

絵地図初期画面左端に「一里塚 江戸から七十一里 京から四十九里」と伊奈一里塚が表示されています。右端に「妙こうし薬師」、「十王堂」と記述されています、現在この地は豊川市宿町古十王になった思われます。絵地図をスクロールするその右に「こざかい(豊川市小坂井町)」と記述され、その先「八まん」と記述されていますが、菟足神社(うたりじんじゃ)のことではないかと思います。その右方向に「小たかばし」「たかはし」と記述されています、「小たかばし」は『子だが橋』、「たかはし」は善光寺川に架かる『万石橋』ではないかと思います。
[菟足神社の社伝によると、当初、平井の柏木浜に祀られていたが、天武天皇白鳳15年4月11日、現在地へ遷座した。現在地には昔、八幡神を祀っており、その相殿となったという説もある。中世では、菟足八幡宮とも呼ばれ、現在も、本殿横に境内社・八幡宮がある。  (「菟足神社 (小坂井町)」より)]

元図「コマ番号 7/21」リンク

絵地図初期画面設定右の「八枚ばし」は白川に架かる五六橋と思われます。絵地図を右スクロールすると、絵地図中程に「あわの宮」、「櫻町(豊川市桜町)」と記述、その上の「明神」は若宮白鳥神社で、その右に「是ヨリ吉田領」(佐奈川付近)と記述され、右端に「一里塚 江戸から七十一里 京から四十九里」と伊奈一里塚が表示されています。

元図「コマ番号 7/22」リンク

絵地図左中央に「一里塚 江戸から七十二里 京から四十八里」と御油一里塚が表示され、その上に「本坂越」と記述され、本坂通り追分が描かれています。そこの右「大明神」は「大社神社」のことになると思います。また、その右「三河のごう」とは豊川市国府町(国府町_(愛知県))のことで、古くから三河国の「国府(こう)」が存在していたことによると思われます。

本坂通と東海道

鳳来寺道(ほうらいじみち)は、東海道御油宿(本坂通り追分)から愛知県新城市の鳳来寺山の山頂付近にある鳳来寺へ延びる街道。

  (「「真誠講」の秋葉道 – まほろば」より)]

元図「コマ番号 7/23」リンク

絵地図初期画面上の家並は赤坂宿で、絵地図を右スクロールすると御油宿の家並が描かれ、接続絵地図左端に「御油 札辻」と記述され、その右方向に「やつをもての宮(八面神社)」、本坂通り追分、御油一里塚が描かれています。

    東海道絵図(吉田宿)    東海道絵図(赤阪宿)